やうもないが、これらの外國船はいちやうに三本マスト、或は四本マストの、扇をひらいたやうな恰好で、ズングリと、胴のふかい、紅だか青だかで彩つた船である。マストのてつぺんに幾條もの旗じるしをなびかせて、マストは蜘蛛の巣のやうに綱梯子がかかつてゐる。もちろん、まだ帆の力一つで東支那海や印度洋の荒波をこえてくるのだらうが、十六艘の端舟に曳かれて港にはいつてきつつある「オランダ入船」も、まだ沖合にゐる「シヤムかかり船」も、みな帆をおろしてゐる。同じ帆船でも「かかり船」のすぐそばにみえる年番らしい肥後細川侯の九曜の紋のある一枚帆のそれが、風を孕んではしつてゐるのに比べれば、このへんで帆を張つては危險なほど巨きなものらしい。奉行所の傳馬型の「改め船」や「番船」やが、對岸の飽ノ浦から沖合の小島へかけて、一番、三番、五番などの石火矢臺(沖の水平線からあらはれてくる異國船の見張所であり、また護りの砲臺でもあつた)のへんまで點在してゐるさまが、鎖された海の日本の入口の、ある緊張したものものしさのうちにも、どつか堰きとめきれぬやうな生々としたものにあふれてみえる。
「長崎之圖」の奧附のそばに、當時の國内航路とでもいふべき海上里程が誌されてあつて、江戸へ四百七十里、京都へ二百四十八里、大阪へ二百三十五里、薩摩へ九十七里、對馬へ九十九里半などとなつてゐる。つまり南は薩摩、北は江戸へ及んでゐるが、江戸から北は誌されてない。歴史に從へば、江戸時代が蝦夷地の經營に直接身を入れだしたのは寛政以後、松平樂翁以來のことだといふから、この圖が出來たころまでは松前(函館)も繪鞆(室蘭)も、特別以外の航路としてはなかつたのであらうし、薩摩の更に南方琉球との航路も、直轄島津藩との間にのみあつたのであらう。
天保年間とおぼしき長崎之圖は、安永のそれと比べて、ほとんど名所錦繪であつて、彩色はきれいだが、粗末である。町名もすくなく、海岸線も山々の所在もボヤけて、地理的な推測は不可能である。港にかかつてゐる船々の姿はわりかた綿密であるが、オランダ船とナンキン船の二種だけで、シヤム船も見えない。すべてが赤や青の彩色にかすんでしまつて淋しい。天保年間といへば終りにちかい同十三年には「異國船打拂改正令」が出てゐるが、まだ高橋作左衞門とシーボルトとの間に、かかる日本地圖海外持出し事件から數年しか距ててをらず、こんな名所圖繪にも影響するところあつたか知れない。
しかし私の興味は三枚の長崎繪圖をとほして、沖合にかかつてゐる外國船の形の變遷にあつた。友人Kが慶應三年頃だと判斷する最後の一枚は、沖合の外國船の形がまるで變つてゐる。ナンキン船などどつかへすつこんでしまひ、二百餘年間長崎港の花形であつたオランダ船でさへ、隅の方にちひさくなつてゐる。ヱゲレス船、アメリカ船、オロシヤ船などが、それこそ港を壓してうかんでゐる。それに、これらの新來の船は圖體が巨きいばかりでなく、安永のそれに比べると怖ろしく長い。おまけに船の胴なかに巨大な車をつけてゐる。つまりこれらは蒸汽船である。まだ帆の力をまつたく無視してはゐないが、この奇怪な水車が、印度洋や太平洋の荒波をかきわけてきたのである。
安永のそれから天保のそれまで約六十年、天保のそれから慶應のそれまで約三十年、通じて約一世紀の、長崎港の沖合にかかる外國渡來の船の姿のうつりかはりは、誰にしろ海の日本の歴史を知りたい慾望をおこさせられるだらう。
日本の活字は昌造らによつて移植され、あるひは創造されたのであるが、一方からいふと、活字は船に乘つてきたものであつた。ドイツ人グウテンベルグが活字を發明したのは、西暦でいふと千四百四十五年で、昌造らがこれを移植したのは同じく千八百七十年であつて、四百餘年が距てられてゐる。その間、皇紀二千二百年頃、元龜、天正のじぶんにグウテンベルグ發明後百五十年ぐらゐ經つて、近代活字が全歐洲にゆき渡つて間もないときに、切支丹宗教と一緒に渡來したのであるが、家光將軍の鎖國方針によつて、切支丹と共に放逐されてこのかた、三百年そのあとを絶つたことは前に述べた。しかしあのとき活字や手鑄込式の活字鑄造機やが放逐されなかつたらば、日本の近代文化はどんなだつたらうと空想することは、面白いは面白いが、馬鹿げてゐよう。考へてみると、一つの文明品もそれ自體獨立に誕生するものでも成長するものでもないことは、三百年後それが再び渡來するまでの、寄せてはかへし、かへしては寄せくる波のやうな船々の渡來が、どんな複雜な事情と結びついてゐたかを考へれば、おのづから納得できることだからである。
日本の近代活字は開國と結びついてゐる。若し明治の維新がなく、開國のことがなかつたらば、わが近代活字の運命もおのづから明らかであつた。したがつて昌造、嘉平、幸民、富二らの日本活字創成の苦心も、開國の雪崩をうつやうな過渡的な容貌をおびてゐるのも自然であらう。ドイツ・マインツの貴族であつたグウテンベルグは、宗教上の意見から平民たちと衝突して、ストラスブルグに亡命した。そしてこの鼻つぱしのつよいドイツ貴族は亡命十一年間、獨佛國境の古都にあつて、心しづかに活字創造に沒頭したし、以後の半生ももつぱらそれに終始することができた。ところが「日本のグウテンベルグ」は、その生涯のほとんどを政治的動亂のうちにおかねばならなかつた。彼は活字のほかに造船もやらねばならなかつたし、自から船長もやらねばならなかつた。製鐵事業もやれば教育もやつた。そして「はやり眼の治し方」や「石鹸のつくり方」や「ローソクと石油の灯はどちらが強いか」などに至るまで、大童になつて宣傳しなければならなかつたのである。
そしてこの相違こそ、開國の事情を知ることなしには日本の活字が説明できない所以であらう。私は先輩友人に教へられて、江戸時代の海外關係史のそれこれを讀んだ。そして私らの遠い祖先と、當時の海の日本の、自分らの位置を知る氣がした。蝦夷地のむかふ、エトロフや、アラスカや、カムチヤツカの、氷に鎖された地圖の涯にも、おどろくべき歴史があつた。私の頭では蒸汽船以前にはまるで空白のやうであつた太平洋にも、アラスカから支那の澳門まで、直線に乘つきつてゆく帆かけ船の歴史があつた。日本海のむかふ、海と陸との區別だけしかハツキリしてゐないやうな沿海州から、シベリヤの茫漠とした地圖のうちには、ジンギスカンの後裔モンゴリヤ人と慓悍無比なロシヤコサツクとの、まるでお伽噺にきくやうな永い歴史をかけたたたかひがあつた。そして鐵砲といふ新武器をもつてジンギスカンの後裔たちを征服したスラヴ族は、地球の北端まで東漸し、やがて千島列島に沿うて南下しつつあつたのである。また南方薩摩、琉球のむかふには、ジヤワ、スマトラに根城をおくオランダ艦隊と、印度、マライに足場をもつイギリス艦隊とが、南太平洋や東支那海で覇をあらそひながら、東上しつつ、オランダ艦隊が臺灣を掠めとれば、イギリス艦隊は琉球に上陸した――。
江戸時代が三百年の鎖國にゐるうち、海の日本の四周は、刻々にヒタしてくる「戰爭」と「文化」の波であつた。そして活字は昌造らがそれを拾ひあげるまで、四世紀にわたつて長崎の海邊に漂つてゐたわけである。
二
嘉永六年(一八五二年)アメリカの黒船四隻が浦賀へきて、日本をおどろかしたと謂はれるが、そのおどろきの劃期的な意義は、おそらく黒船の形にあつたのではなからう。長崎港を無視して、禁制の江戸灣へ侵入してきたことと、不遜にも武力をもつて開國を迫つたといふ、ペルリのやり方にあつたのであらう。「――黒漆のやうに相見え、鐵をのべたるがごとく丈夫にて、船の兩脇には大石火矢を仕かけたる船――」が日本海岸に出現したと、時の伊達藩廳が江戸へ早打ちをもつて注進したのは、既に元文五年(一七三九年)にはじまつてをる。もちろんこれはアメリカの船ではなく、ロシヤの船であつて、時の幕閣は(陸へあがつたらば取りおさへておいて、直ちに注進せよ)と、のんきな命令をだしてゐるが、以來百餘年の間、日本のあちこちに、さまざまの黒船があらはれた。
仙臺藩廳をおどろかしたロシヤの黒船は、海軍中佐スパンベルグの日本探險船であつた。この船は享保十九年(一七三三年)クロンシユタツトを出て、遠く喜望峰を迂囘しながら太平洋を北上しつつ、二年後にオホツクに到着、五年後の元文四年にオホツクで新たに建造した三隻の船をもつて、一度び千島列島を南下してきたが、海上暴風に遭つて目的を達し得ず、再び六年後の元文五年六月に、漸く日本本土を望見しつつ、牡鹿半島の長坂村沖合に達し、住民らと手眞似をもつて、煙草と鮮魚と交換したといふ――。
私はスラヴ人の根氣のよさにおどろく。海軍中佐スパンベルグは、ベーリング海軍大佐を長とする極東探險隊の第三探險隊長で、ピヨトル大帝の第二次極東探險隊の一部であつた。これを溯るとベーリング大佐が「ベーリング海峽」を發見した第一次の探險隊は一七二五年にペトログラードを出發してをり、以來第二次探險で、一七四二年にコマンドルスキー群島の一つベーリング島で、壞血病をもつて瞑目するまで、前後十七年を費してゐる。そして更にロシヤの極東制覇を溯つてゆくならば、アラスカ經營、カムチヤツカ統治、沿海州のモンゴリヤ人種打倒と、ヨアン四世がはじめてヴオルガ河を渡つて東漸しはじめた一五三〇年に至る二百餘年の歳月があつた。
これがロシヤ人が日本を訪れた最初である。スパンベルグの船が更に南下して、仙臺藩領田代島三石崎沖に假泊してゐるとき、藩吏千葉勘左衞門、名主善兵衞、大年寺住職龍門の三名は船を訪れて、その報告を次のやうに記録してゐる。「人柄阿蘭陀に似候」「阿蘭陀仁たべ候ばうとる(バタ)と申物」をつけ、「阿蘭陀仁たべ候パンと申物」をくつてゐるといひ、「燒酎の味仕候」といふ火酒を馳走になり、「夫より紙にて仕候繪圖を出申し、又圓き物にて、世界萬國の圖を仕候物を出しみせ候。いづれも日本に近き國より參り候にも仕形仕候云々」などとあつて、三人のうち、恐らく僧侶龍門の長崎知識によつて判斷したのだらうと附記してある。スパンベルグは沖合から日本本土を望見しただけで去つたが、仙臺藩は旗本三十名以下、大筒役石火矢係など多數の武士を牡鹿半島に急行せしめ、石卷港は凡ゆる船の出入を停止、「――此間御城之御用意、扨て近代無之大騷動――」であつた。
日露關係はかういふ風にはじまつたのであるが、ロシヤはこのとき地球の北端をきはめ、それからは南下しつつ支那、印度にでる一途であつた。カムチヤツカやアラスカに根城をおき、ヨーロツパに株主をもつ露米會社は、北氷洋の獵虎、沿海州の黒※[#「豸+占」、第4水準2−89−5]の毛皮を當時最も高價に取引された支那の港に賣りこまねばならなかつたし、最も幸便に北太平洋から東支那海にぬけるには、日本本土を仲繼ぎにすることが最上であつたらう。しかも日本は「全島黄金に埋まつてゐる」といふ、當時の世界的傳説があつたといふから、この鎖された國を顧客ともしたかつたにちがひない。いづれにしろ日露關係の起源は古くはなかつたが、以來はまことに執拗に二世紀にわたつて反覆されてゐる。ロシヤの當時の日本に對する方針が、非常に惡質の侵略といふべきものか、それとも先進國としての經濟的接近といふべきか、私に判斷は出來ないが、尠くとも當時の歴史が傳へるところでは、武器をもつて脅迫するなどいふのが底意ではなかつたらしい。たとへばピヨトル大帝以來日本の船が難破して、沿海州などに漂泊した例は多く、それらの乘組員が庇護されてペトログラードの日本語學校の教師となつたり、ピヨトル大帝やエカテリイナ女皇に謁見をしたりした記録は有名である。もちろんロシヤの眞意がそれらを餌として日本の歡心を買ふものであつたとしてもである。ピヨトル大帝の遺志をついだロシヤ元老院は日本探險隊長スパンベルグ中佐の出發に先だつて、次のやうに訓令してゐるといふ。「カムチヤツカにおいて若し漂着の日本人あらば、日本國に對する友誼の表徴として之を其本國に送還すべし。遭難海員を護送し
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