を否定してゐるわけではない。
 そこで漸く、私の主人公、本木六世、三谷氏系圖では第七世、昌造が登場してきたのであるが、かくもくどくどと本木家系圖を述べたてていつた理由を、讀者よ、諒解して欲しい。カメノコタハシや魔法コンロの發明とちがつて、文明史のうへに足跡をのこすやうな、何か根本的な發明なり改良なりには、相應のたかい精神が必ず裏づけられてゐるものと私は信ずる。つまり、近代日本の文化の礎石の一つとなつた活字の創造、或は移植をした昌造の精神に、かうした數百年にわたる家系が、何らか影響するところなかつたらうかを、私はみたかつたのだ。

      三

 伯父昌左衞門の養子となつた幼名作之助は、のち元吉、昌造と改めたが、十一歳以後は通詞たるべく勉強したにちがひない。養父の手ほどきをうけ、通詞稽古所に通ひ、或は養父の手びきで、直接蘭館の外人たちからも學ぶところあつたであらう。そして、昌造の時代となれば、和蘭通詞も蘭語だけではなかつたと思はれる。既に家系にみたやうに庄左衞門以來は、佛蘭西語や英語の傳統があつたからであるし、天保、弘化、嘉永とちかづくにしたがつて、異國船打拂の改正令が出たほど、外國船の來航は繁くなつてをるし、必要になつてゐるからである。
 かくして昌造は横文字を習ひ、通詞たるべき資格を養ひつつあつたが、ではそれは同時に「洋學者」でもあつただらうか? 私はいままで通詞と洋學者を一緒にしてきたやうである。なるほど長崎における和蘭通詞と蘭學の發達は切つても切れない關係がある。事實、それは日本における洋學に貢獻したし、醫術における楢林流、吉雄流を出し、天文において本木、志筑の諸家があり、砲術における高島、本草學における吉雄、その他、殊に語學においては職業柄多くの先驅的學者を出してゐる。しかし、通詞は、幕臣、藩臣、或は町人出の所謂「蘭學者」と同じ性質のものであつたらうか?
 通詞とはまことに特殊な職業であつた。私の貧しい知識でいつても、ごく稀な場合「幕府譯官」などと敬稱されるが、普通には「長崎通辯何の何兵衞」といつた卑しい言葉で、そこらの輕輩武士からも捨言葉される傾きがあつたやうだ。例へばのちにみるやうに、土佐侯容堂の造船企畫について昌造が與かつた當時のことを、同藩家來寺田志齋が、その日記のうちで、かなりの捨言葉で誌してゐるのにもみることが出來る。しかし通詞は幕臣ではなくても幕府支配の下にあつて、往々にして幕閣でも重要な政治機微について用辯してをり、諮問に與かるくらゐのことはあつたであらう。しかも彼等は士分でもなく、さればといつて純然たる町人でもなかつた。
 通詞制度はいつごろ出來たものか?「和蘭通詞又譯司は通譯官と商務官とを兼ねたものであつて、オランダ人はこれをトルコと呼んだ。和蘭通詞は平戸時代からあつた。但、その整然たる階級は長崎時代になつてから出來たもののやうである」と、板澤氏は「蘭學の發達」で述べてゐる。つまり慶長五年に和蘭船が九州豐後水道の沖合に漂流して以來のことにちがひないが、秀吉末期までは政治の方針も相違があつたから、恐らく通詞の性格が確然としたのは家光以後の事だと、私らにも想像がつく。
 たしかに「通譯官」と「商務官」にはちがひないが、今日の常識でいふ「官」と名づけられる程の内容があつたかどうかは疑はしい。たとへば文化十一年、蘭館長ヘンドリツク・ヅーフが、本國が英國のために降伏して、前記したやうにその六年前には「英艦事件」を惹き起したが、再び英國は蘭人で前任館長カツサを表面にたてて、ヅーフの任期既に經過してゐることを楯にとつて、合法的な占領をせんとしたとき、日本の通詞たちをダシにして大芝居をうつたことがある。つまり「同夜予は祕密に與かれる五通詞の外目付と大小通詞一同とを予の許に召集し」とヅーフは「日本囘想録」に書いてゐる。そしてカツサに和蘭本國はやがて平和に歸すだらうから、それまでヅーフを現任のまま繼續すべしといふ虚僞の聲明をせよと迫つたのだ。カツサは自身英國の手先であり、それを拒むためには通詞たちの面前で事情を明らかにしてしまはねばならない。而もヅーフは既に五通詞をして「祕密に與かれるもの」としてゐるのである。
 もちろん歴史が示すやうにヅーフの恫喝は成功した。ヅーフは蘭領がすべて失はれたとき、ひとり日本の長崎でだけ同國旗を飜し得た和蘭歴史の功勞者となつた。しかし飜つてわが日本からみるときはまつたく圖々しいといはねばならぬ。英國に加擔するわけではないが、このときヅーフに反對行爲を示した本木庄左衞門と名村多吉郎の方針は、ヅーフが惡しざまにいふ精神からばかりではなかつたらう。しかも勝手に通詞たちを「召集」したりしたヅーフは、そのとき大通詞であつた名村、本木の二人について「予は此の機會によりて日本にては下級の官吏とも親交するの必要[#「下級の官吏とも親交するの必要」に傍点]なることを實驗せり」と書いてゐる。
 ヅーフは策略ある人物だつた。名村、本木の二人を離間させ各個撃破するために、個々に呼びいれ、時計を與へたりして、これに成功してゐる。そしてこれは同時に通詞らの一般的性格を示すものかも知れない。さきに見たやうに庄左衞門ほどの人物が、ただ銀時計一箇に眼がくらんだばかりではあるまい。ヅーフにかかる策略をさせるところ、また通詞側にもそれに乘ずる特殊な空氣があつたのではなからうか?
 岩崎克己氏は「前野蘭化」で書いてゐる。「和蘭通詞が通辯飜譯の外に和蘭人の行動を、殆ど箸の上げ下しに至るまで、監視することを職務としてゐたことは「ケンペエル江戸參府紀行」に見えてゐた通りである。從つて罹病した和蘭人が内外の治療、手術を受ける場合にも、彼等は通詞等の監視を免れることは出來なかつた」と。つまりこれも、家光以來の方針が、「通譯官」であり「商務官」である通詞らにいま一つ加へて與へたところの役割であつたらう。
 通詞の食祿は尠い方ではなかつた。元祿八年頃で、大通詞銀十一貫五人扶持、小通詞銀七貫三百目三人扶持、小通詞並で銀三貫目だつたと「蘭學の發達」は誌してゐるが、それより降つて幕末期になると、「大通詞銀千百兩、米千九百六十升、小通詞一級銀五百三十兩、米千二百三十升、小通詞二級銀三百兩、小通詞三級銀三百兩」と「日本交通貿易史」のうちでシーボルトは書いてゐる。その他慣例によれば和蘭船の着く毎に、いろんな名目で「餘祿」があつたといふのだから、經濟的にはそこらの武士をはるかに凌ぐものがあつたと思はれるが、それと同時に、通詞らの過失や犯罪の處罰もまことにきびしく、たとへば天保八年に小通詞名村元次郎はサフラン二十五本をどうかしたといふ廉で獄門にのぼされてゐるし、前記した甲比丹ヅーフは本木、名村の兩人を各個撃破し、自分の目的を達するためには、二人の過去の小事實を長崎奉行へ密告して生殺與奪の權を自身で握つたことを「日本囘想録」のうちで得々と誌してゐる。
 まことに通詞とは機微な存在であつた。私は思ふのだが、「日本交通貿易史」のなかで述べてゐるシーボルトの次のやうな通詞に對する觀察が、もつとも正鵠を得たものではないだらうか。――通詞といふは手輕き名にて、しかも重要なり。その役柄はもつとも困難にして、諸方面に對しては腰を卑くせねばならず。彼等は官吏にして語學の師匠、仲買人にして商賣人なり――。そしていま一つ附加へて彼は謂ふ。――多くは無主義、無性格の人々なり――。
 これが恐らく和蘭通詞といふものの一般的性格であつたらう。語學といふものも白石、昆陽以來、江戸その他において有力な洋學者があらはれて「蘭學事始」のごときことが起らなかつたらば、それは貿易の必要上、ほんの通詞らの特殊技能以上のものとはならなかつたか知れない。また通詞ら自身でも、少數の人々を除けば、多くは「鼻紙に片假名で發音を書きとつた」だけで用が足りれば、それで滿足だつたにちがひない。しかし歴史の作用は何と妙であらう。かうした人々は同時に外人の家庭の世話から「箸の上げ下しまで」見てゐなければならなかつたせゐで「門前の小僧が習ひもしないのにお經が讀めるといつた類ひで――醫師の眞似事が出來るやうになつた。そして最初は、強ひて病家に乞はれる儘にほんのその場限りの積りで、恐る恐る手術したり、投藥してみたりする。ところが此の無免許先生、案外に成績が良い」(前野蘭化)といつたぐあひで、少數のすぐれた通詞らは通詞の域をいでて、醫術に限らず、その他の學問でも、いくらかづつ深入りしていつたのであらう。
 私らは本木一家にみても、さきに庄太夫良意の「和蘭全躯内外分合圖」を思ひ出すことが出來るし、仁太夫良永の地動説の紹介、庄左衞門正榮の「英吉利言語集成」などを顧みることが出來る。そしてもつと典型的な一例として良永の弟子志筑忠雄、のちの中野柳圃の「暦象新書」をあげることが出來よう。良永の「太陽窮理了解」は日本天文學に魁けるものだが、つまりは紹介の域を多く出なかつた。しかも忠雄柳圃の「暦象新書」はもはや紹介ではなかつたのだ。彼の天文學は日本に最初の地盤を打ち樹てた自説であつたのだ。そして「紹介」が「自説」となるためには、柳圃はどうしなければならなかつたか? 彼はひたすらに二十年の研修をつづけるために、養家の志筑家をいでて、もはや通詞をやめて、一個の學者中野忠雄とならなければならなかつたのである。
 私らはここに「蘭學者の蘭學」と「通詞の蘭學」の區別をみることが出來よう。江戸や京阪の洋學者たちは、最初はしばしば長崎を訪ね通詞らの門を叩いてゐる。しかし彼らは最初から學問をめざしてゐたのである。林子平が本木良永の門を叩いたと謂はれ、平賀源内、前野良澤、大槻玄澤ら、また長崎を訪れた。しかし彼等はすべて自分のものとしたのだ。
 そして私の主人公本木昌造はどうであらう。彼は傳統ある家に人となり、前記した通詞の一般的性格のうちに育つた。彼の生涯は幕末の混亂期から明治維新後の文明開化期までをつらぬき、迂餘曲折をきはめてゐる。あるときは日露談判の通辯となり、あるときは、幕府の軍艦の機關長として、長州兵と戰ふかと思へば、あるときは姉公路卿を載せた汽船の長となつて、無事勤皇の大役を果したり、またあるときは八丈島に難破したり、長年月を獄に下つたりする。そしてただ一つ活字だけが二十數年後に完成するのだが、このジグザグな彼の生涯のうちに、通詞の一般的性格をどれだけ、そしてどういふ風に超えただらうか。
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        よせくる波


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      一

 私はむかしの長崎繪圖を都合三枚みることができた。最初の一枚は帝國圖書館でみたもので、安永七年の作である。あとの二枚は友人Kの蒐集したもので、Kの鑑定によると、一枚は天保年間とおぼしきもの、いま一枚は慶應二年頃と判斷されるものである。
 安永の墨一色の「長崎之圖」は、大畠文治右衞門といふ人の作で、可なり精細である。町の中央をやや左寄りに二股川が流れ、その上流は二つの支流にわかれてゐる。左の支流は、後年シーボルトが長崎奉行の肝煎りで新知識普及の道場とした鳴瀧に源を發してをり、そのほとんど近くに昌造の生地新大工町がある。二股川はその下手で右からくる支流をあはせて、まつすぐに海へそそぐのであるが、河口の左側突端に「唐人屋舖」があり、河口の右手にもつと大きな扇型の島がある。これがいはゆる「出島」であり、「和蘭商館」のあるところである。この圖でみると、出島は帽子の玉飾りのやうで、帽子にあたるところ、つまり出島と橋一つでつないだ、やや圓型の突端に長崎奉行所がひかへ、その裾を八の字にひらいた長崎の町々の、港を中心に繁榮してゐるさまが描かれてある。海にむかつて、奉行所の右手海岸はとほく弧をゑがきながら肥後、筑前、佐賀、平戸、諫早、柳川などの各領主、當時日本の入口を護る年番諸侯の屋形所在地がつづいてゐる。
 私は興味をもつて港の沖合にかかる船々の繪をみた。大小さまざまの船がある。オランダ船、シヤム船、ナンキン船――。私は船について全く知識がないから判斷のし
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