て其郷土に送還するは、日本國訪問に好箇の口實をなすべきも、若し同國政府にして該遭難海員を受領する事を拒絶せば、之をして日本國海岸の何れの處にてか上陸、郷土へ歸還せしむべし。あらゆる機會を利用して好意を示すを旨とし、頑迷なる東洋流の無愛想をも意に介すべからず。日本人の感情を害する如き擧動を極力愼むべし――云々」
「燒酎の味仕候」火酒を飮み、世界地圖を見、地球儀をみておどろいた僧龍門の報告と、その六年前に書かれたロシヤ元老院の記録とをならべてみると、既にロシヤがあらゆる意味でどんな大敵であつたかを思はせる。彼處には「友誼の表徴」といふ文字があり「東洋流の無愛想」といふ豫備知識があつたのだ。爾來ロシヤの對日方針は、ピヨトル大帝のそれに副うてゐるものがあるやうだが、一國の政治にはそれぞれ複雜な變遷があるし、言葉も文字も通じない未知の國同志の理解の喰ひちがひは屡々おこつた。「はんぺんごらう事件」と「フオストフ事件」とは、安政二年川路プーチヤチンによる日露修好條約が結ばれるまでの百年間、ロシヤ側の執拗なる日本訪問にかかはらず、日本側の除きがたい惡感情の種子となつたやうである。
 明和八年(一七七一年)夏、カムチヤツカから出帆した一隻の黒船が、千島列島を南下、まるで彗星のやうに津輕海峽をぬけて、やがて大阪灣に出現、阿蘭陀船と僞つて毛皮と米薪炭を交換したが、間もなく長崎沖にいで、奄見大島へぬけ、臺灣海岸に上陸、蕃人と合戰し、再び南下して支那の澳門に達したといふのが「ばろんもりつあらあたるはんぺんごらう」の、カムチヤツカ監獄脱走船であつた。
 ハンガリヤ人にしてポーランド貴族、自稱ベニヨーウスキイ伯爵が、日本ではどうして「はんぺんごらう」と訛つたか私はいはれを知らない。このハンガリヤ人はポーランド内亂の際ロシヤ軍の捕虜となつて、一七六九年シベリヤ流刑を宣告され、當時露米會社の政策によつて、カムチヤツカに護送されたが、三年目に一味徒黨をかたらつて、カムチヤツカ長官以下を殺戮し、北極から支那までの脱走に成功した世界的冒險家? である。そしてこれが恐らく北からきて日本海岸を通り、東支那海へぬけた世界最初の船であらう。
 歴史は時によつて皮肉である。ピヨトル大帝以來の對日方針の辛苦經營は、不幸にもこんな脱走犯人によつて最初の幕が開かれたわけである。しかもこの脱走犯人は奄見大島に碇泊中、食糧薪水の補給をうけた恩義にむくいるためか、ドイツ語、ラテン語による北邊事情を密告した。長崎通詞中にはもちろん右二ヶ國語に通ずるものはなかつたので、和蘭商館長がこれを蘭譯して長崎奉行に提出した。日本文になつてゐる「ウシマにおいて、ばろんもりつあらあたるはんぺんごらう」の署名ある記録は、半紙一枚ほどの短文であるが「――日本國之筋を乘※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]り看、又一所一所に集り候筈に候、必定考候は、來歳に至り而者、マツマエの地、その外近所の島々え、手を入候事も相聞候――云々」などいふのがある。どのへんまで眞實か知らないが、その後數年を經てから長崎に來た林子平は、和蘭商館長からこのことを聞知して、彼の「三國通覽圖説」をもつて海防の急を愬へる動機にしたとも謂はれてゐる。
 とにかく、まだ鎖國の夢まどらかな時代ではあつたが、さきにスパンベルグの訪問があり、いま「はんぺんごらう」の彗星のやうな通過があつて、黒船の姿は當時の人々に大きな衝動を與へただらう。しかも北からくる船はロシヤばかりではなかつた。十八世紀の末まではまだ世界の地圖に空白があつた時代である。ヨーロツパからみれば太平洋の周圍には、まだ誰もが手をつけない「めつけもの」があつた時代である。米大陸の一部が發見されてから二百數十年、ベーリング大佐がベーリング海峽を※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]り、アラスカ東端を發見してから半世紀に足りない。ヨーロツパ人からみれば北太平洋から支那大陸の間に横はる日本の存在は、コロンブスにも似たやうな冒險心を唆らせる對象だつたと思はれる。イギリスの海軍大臣は同じ一七七〇年代の安永年間に海軍大佐ジエームズ・クツクに訓令して日本本土沿岸を探險せよといつてゐる。クツク大佐は再度太平洋を横斷してアラスカまで來つたが、果さずして一七七九年ハワイで死んだ。するとこんどはイギリスに代つて、フランスのルイ十六世が、ド・ラ・ペルウズ海軍大佐に命じて、クツクの遺業をつがせた。ペルウズはクツクの死亡後、四年目にアラスカに到達、つづいて沿海州海岸を測量し、間宮海峽にまで及んだといふ。
 當時の幕閣は、奇矯の言を振りまいたといふ廉で林子平を逮捕し「海國兵談」は板木まで沒收したが、子平や同じ仙臺藩平澤五助の海防唱道も、むしろ遲きに過ぎたか知れぬ。ペルウズが去ると、代つてイギリス海軍大佐ヴアンクヴアが二隻の軍艦を率ゐて、アラスカの多島海へきた。それが丁度寛政の三年である。そしてヴアンクヴア大佐が困難な多島海の測量を終へて退くと、その部下ブラフトン大尉が、愈々クツク以來の宿願である日本沿岸測量を遂行、寛政五年の九月、暴風の中を津輕海峽に達し、北上して蝦夷地の繪鞆(室蘭)に入港投錨したのであつた。
 このとき松前藩は防備手薄であつた。家老松前左膳はオシヤマンベにおいて英船渡來の報を知るや、早速藩廳から高橋、工藤の他數名の藩士に、少しロシヤ語のわかる醫師加藤肩吾をつけて繪鞆へ急行させた。このとき松前藩は手薄であつたためか、事が急で方針が確定してゐなかつたためか、いきなり異國船を撃攘する態度にはいでず、ロシヤ生れの相手方水兵に加藤のロシヤ語をもつて漸く意志を通じながら、艦上を訪問したといふ。ブラフトン艦長はよろこんで一行を歡待し、會食の後、高橋、工藤、加藤らは携帶したロシヤ製の日本北部地圖を示して、これを謄寫せしめ、ブラフトン艦長はまたその謝禮として、自國のクツク大佐がつくつたところの世界海圖を高橋らに贈つたさうである。
 このときのロシヤ製北部日本地圖などいふものが、どうして高橋らの手に在つたのか、そのいはれを示した記録を私は知ることができない。併し何故か不思議といふ氣はしない。日本で一番最初にロシヤ語を解したのは、學者でも武士でも醫者でもなく、海上難破してカムチヤツカとかオホツクあたりに漂着した日本の船乘たちであつたことを、多くの記録が語つてるやうに、蝦夷地に住んだ漁夫とか農夫とかは、記録もほとんど傳へ得ない世界において、カムチヤツカ土人や漂流ロシヤ人などと入り雜つて生活してゐただらうと想像することが出來るからである。現實はつねに記録よりも豐富だが、その記録でさへが、長崎と薩摩の間を往來する日本帆船が漂流して、フイリツピンのマニラやハワイ邊まで漂着した事實を傳へてをり、四國沖を航海する鹽をつんだ日本帆船が難破漂流して、太平洋の對岸(ずゐぶん遠い對岸であるが)アメリカ合衆國のオレゴン州コロンビア河口に流れついたなどいふ記録や、もつと北方のカナダ海岸に漂着してアメリカインデヤンの捕虜となつたとか、生きながらへて土人と混血してしまつたと推測されるやうな事實さへ傳へてゐるのだから、スパンベルグ來訪以來五十年の當時、ロシヤ製日本地圖が自然的な力で松前藩士らの手に在つても不思議ではないだらう。
 ブラフトン大尉は平和裡に二週間を繪鞆に碇泊。薪水補給、艦體修理、測量海圖の作成など終つてから、遠く日本の太平洋沿岸を南下、澳門に着いた。そして二ヶ年の休養後、寛政九年、ブラフトン大尉は再び澳門を出發、東支那海を東上した。臺灣海峽を通過して沖繩島に達し、再び太平洋岸にぬけて、こんどは日本本土に近接、海圖に記入しながら江戸灣なども確かめて夏の終りに繪鞆へ入港した。ところがこんども醫師加藤他二名がブラフトン大尉を艦上に訪問したが、彼らはもはや三年前の知己ではなかつた。ブラフトン大尉が慌てて繪鞆を出帆したときに、松前藩の士卒三百人が港ちかくに迫つてゐたといふ。「異國船再び來る」の報は江戸へも飛んで、老中松平伊豆守は事態容易ならずとして、松前若狹の參覲を停め、津輕藩にも箱館出兵を命じたが、船足の早い異國船はつひに捕へることが出來なかつた。
 北邊は漸く多忙であつた。しかもこれよりさき、イギリスのヴアンクヴア大佐が、多島海を測量してゐるとき、寛政の四年には、北からくる船のうちでも主人公、ロシヤのエカテリイナ女皇の第一囘遣日使節の軍艦「エカテリイナ號」が、女帝の親翰を捧持しつつ、千島列島を南下してきて、根室灣に投錨、松前藩に至つて、正式に來航の理由を明らかにしたのであつたが、これがヨーロツパ國家の元首が直接交誼を申入れた最初であらう。

      三

 十八世紀末から十九世紀へかけて、日本を訪れる黒船の數はしだいに頻繁となつたばかりでなく、一波また一波、あらたに寄せてくる波は、かへした波のそれよりもグンと大きくなつてゆく觀があつた。しかも鎖された國を脅やかすものは英、佛、露のみではなく、このときは既にアメリカの毛皮業船が、アラスカから澳門へむかつて、帆一枚で太平洋を渡りつつあつた。コロンブス發見以來の新興國民は、イギリスのクツクの探險報告でアラスカ沿岸のおびただしい獵虎の棲息と、それがロシヤ人にだけ獨占されてゐるのを知つて、命知らずのヤンキーたちは小帆船を驅つて殺到してゐた。當時アメリカ人は獵虎を狩るアラスカ土人に、鐵の頸輪一箇を毛皮三枚と交換して、毛皮一枚は澳門で七十五弗で取引されたと謂はれる。寛政四年(一七九二年)にエカテリイナ女皇の遣日使節が蝦夷松前にやつてきた年には、日本の東岸とほく太平洋を横ぎつてゆくアメリカ帆船は二十五隻にのぼつたといふことだ。つまり鎖された國を脅やかすものは北と南だけではなくて、東にも出現しつつあつたわけで、さらにこの年前後からは、毛皮船ばかりでなく、大西洋岸にあつたアメリカ捕鯨船が太平洋に河岸をかへた頃にあたる。世界最大の未開の海は豐富であつた。アメリカ人たちは抹香鯨を逐うて、南は赤道をこえて印度洋に入り、マダガスカルから紅海に達し、北はベーリング海峽をこえて、オホツクから沿海州一圓に至り、ハワイを通過する船はつひに鳥島をこえて、文政三年(一八二〇年)頃には、わが海岸に食糧薪水をもとめて、房總方面に上陸する捕鯨船が頻繁だつたと記録は書いてゐる。
 かういふ事態は、その二百年前に九州豐後水道にたまたま流れついたポルトガル船や、薩摩海岸に飄然上陸した一宣教師やが、切支丹や活字やをもたらしてきたやうな、ロマンチツクなものでないことがわかるが、さて當時の幕閣は、かうした海の四周のざわめきに對して、どんな理解と方針があつたであらう? 時の老中松平樂翁は、ロシヤの遣日使節ラクスマンに對して、「宣諭使」石川將監、村上大學の目付二人を送り、宣諭使は「異國人え被諭御國法書」を讀みあげて、「かねて通信なき國の船舶本邦に渡來せば、之を逮捕し或は撃攘する事我國法にして、若し漂民あらば、必ず長崎に護送すべし、國書をもたらすとも、受領する事能はず」と云つた。「エカテリイナ號」は根室灣に碇泊して「宣諭使」の來着を待つこと八ヶ月のうち、同船で送還されてきた漂民數多も、ロシヤ人乘組員も、また日本側警備員たちも、多數壞血病で死んだ。史家たちは當時の記録をつたへて、この時江戸評議の延引や、ラクスマンへ「長崎入港許可書」を與へたことやを基礎にして、松平越前は或は「松前の一港ぐらゐ開いてもよい」意志があつたのではないかとみる向もあるが、とにかく幕府の苦心は漸くこの頃にはじまつたのだらうか。
 ラクスマンが歸國して十一年目「長崎へゆけば國書が受理される」といふ彼の誤解? をもとにして、第二囘遣日使節國務顧問兼侍從ニコライレザノフは、文化元年七月に長崎に到着した。「ナデジユダ」「ネワ」の二軍艦をもつて、國書を捧持しつつ、クロンシユタツト發航以來二年目である。そして漂民護送は容れられたが、やはり通商は拒絶、ロシヤ側の贈物も法規に基いて、全部長崎奉行からおくりかへされて、記録は「ラクスマンの「長崎へゆけば」は誤解であつたことが明瞭
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