いくらかづつ深入りしていつたのであらう。
 私らは本木一家にみても、さきに庄太夫良意の「和蘭全躯内外分合圖」を思ひ出すことが出來るし、仁太夫良永の地動説の紹介、庄左衞門正榮の「英吉利言語集成」などを顧みることが出來る。そしてもつと典型的な一例として良永の弟子志筑忠雄、のちの中野柳圃の「暦象新書」をあげることが出來よう。良永の「太陽窮理了解」は日本天文學に魁けるものだが、つまりは紹介の域を多く出なかつた。しかも忠雄柳圃の「暦象新書」はもはや紹介ではなかつたのだ。彼の天文學は日本に最初の地盤を打ち樹てた自説であつたのだ。そして「紹介」が「自説」となるためには、柳圃はどうしなければならなかつたか? 彼はひたすらに二十年の研修をつづけるために、養家の志筑家をいでて、もはや通詞をやめて、一個の學者中野忠雄とならなければならなかつたのである。
 私らはここに「蘭學者の蘭學」と「通詞の蘭學」の區別をみることが出來よう。江戸や京阪の洋學者たちは、最初はしばしば長崎を訪ね通詞らの門を叩いてゐる。しかし彼らは最初から學問をめざしてゐたのである。林子平が本木良永の門を叩いたと謂はれ、平賀源内、前野良澤、大槻
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