の弟子であつた長英、また「夢物語」や「愼機論」やを、昌造など直接讀む機會をもつたか否かはわからぬにしても、幕府の「打拂令」について洋學者たちがはじめて觸れた政治的見解であつたから、贊不贊は問はず、同じ洋學をやる昌造には、ニユースの早い長崎で、何かと感ずるところがあつたと思はれるし、天保十三年の「改正令」が出たときは、職業柄昌造たちには現實的にひびくところがあつた筈である。
 私は昌造の幼少時について傳へる文獻を知らないから、こんな世上一般の動きを考へて、その一面を推し測つてみるのだが、長崎といふ地にあつて、通詞を職とする家にあれば、その影響するところも、單に國内的なものばかりではなかつただらう。年々歳々、これだけは家康の渡海免許の御朱印状を持つてゐて、貿易のために渡來する和蘭船のほかに、當時のさだめとして、日本の土地のどこに漂着しても、必ず一度は長崎におくられてきた、毛色眼色のちがつた異國人たちに接してゐれば、あれこれと海外の珍らしい出來事も聞きかじつたと察することが出來る。
 そして昌造が五歳の年、一八二八年にはアメリカ大陸にはじめて汽車がはしつたのであるし、昌造十一歳の一八三四年に
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