には「異國船打拂令改正」が出てゐる。文政八年のそれは周知のやうに「異國船渡來之節無二念打拂可申」といふ頑固なものであるが、天保十三年の改正令では「其事情不相分に、一圖に打拂候而は、萬國に被對候御所置とも不被思召候」また「異國船と見受候はば、得と樣子相糺し、食糧薪水等乏しく、歸國難成趣候はば、望之品相應に與へ」云々となつてゐて、この改正令も外國人の上陸は許さなかつたが、よほど緩和されたものとなつてゐる。文政八年の令は將軍家齊であるが、改正令は家齊退職の直後であつて、その間幕閣にもいろいろと機微な動きがあつたであらう。文化文政の頃からは英船、魯船の來航が漸く頻繁となつてゐるし、少年昌造には、政治の機微な動きについて察知することは出來なかつたとしても、たとへば次のやうな出來事は影響あつたのではなからうか?
 つまり「蠻社遭厄事件」で、天保十年に高野長英、渡邊崋山が捕へられたとき、昌造は十五歳であつた筈である。長英の「夢物語」、崋山の「愼機論」を幕府が忌むところとなつて崋山は天保十二年、昌造十七歳のとき自殺し、長英は昌造が二十七歳、嘉永三年に自刄するまでは破獄したまま行衞不明だつた。シーボルト
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