校舍を建てシーボルト講學の場とす」とあり「醫學、博物學を講説す」とあつて、當時の模樣を日高凉臺が手紙で傳へた文に「此節は西醫も珍敷者到來にて、町ぢゆう施療彼是にて、四方の英哲許多相集、未曾有之盛事と申に御座候、當時阿州美馬順三、江戸湊長安、遠州戸塚靜海、阿波高良齋、其他研介○○などいづれも相應に出來候者にて愉快無限に相覺申候」云々といふくだりもあつて、昌造が物心つくころには、長崎ぢゆう好學の氣分が溢れてゐたのだから、よほどのボンクラでない限り、何らかの影響をうけずにはゐられなかつたらう。
ましてや彼は通詞を職とする家柄に人となつたのだから、その影響度合もはげしかつたにちがひない。おまけに長崎は幕府直轄の地であるし、通詞は長崎奉行の支配下にあつたから、政治的影響も色々と身にしみながら成長したと思はれる。殆んど江戸末期の政治的合言葉となつた「攘夷」と「開國」は、海外文物の入口であつた長崎では、日本ぢゆうのどの土地よりも直接ひびいたらうし、通詞といふ職業柄、長崎ぢゆうの誰よりも現實的に影響したにちがひない。
昌造二歳の文政八年には幕府は「異國船打拂令」を出してをり、昌造十九歳の天保十三年
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