べき功勞にちがひないが、私も某所でみた大鳥の「斯氏築城典刑」の實物は、字形が夫々異つてゐて彫刻に違ひないと思はれた。近代活字の重要さは、電胎法による字母が完成したことにあるので、本木だけがそれをやつたのだと思つてゐた。それに今一つは、ある書物で「大鳥圭介傳」の孫引から讀んだ字句が私には氣にくはなかつたのである。「――蘭書に基き、その鑄造法を種々研究して、遂に兩書の出版に手製の活字を使用したことがあつた。我邦における活字の開祖としいへば、世人長崎の平野富治を推すも、此は西洋の機械を初めて輸入して製作したるものにして、予が在來の錺屋に命じて鐵砲玉を作るが如くにして作りたるとは、その難易同日の論にあらず、而して予の製作は平野に先つこと數年なれば、日本に於ける活字の元祖は斯く申す大鳥ならんと云ひしことありとぞ――」
 平野は本木の門下であり協力者であつて、彼が昌造の活字を船につんで東京へ賣捌きに出たのは明治四年の夏のことであるから、大鳥の言を傳記筆者の儘に信ずるとすると、この言葉も明治四年以後であることは明らかで、嘉永元年以後二十餘年に亙る本木の失敗苦心とその存在を知らなかつた譯である。當時の
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