いふ程のことである。
「茗邨君といふのは誰でせう?」
 M・T氏に訊いてみた。木村、勝の一行は時の海軍練習生が大部分であらうと思はれるが、昌造の友人とすれば或は長崎通詞で隨行した人かも知れない。M・T氏も小首を傾げて「さあ」と云つた。
「K・H氏に訊いたらわかるか知れませんネ。」
 私はK・H氏を知らなかつた。
「紹介してもいいですよ、ほかの著書も蒐めてゐるか知れない。三谷氏が亡くなつたから本木研究ではこの人が一ばんでせう。」
 M・T氏は卓の上に名刺をおいて、紹介を書き始めたが、ふと顏をあげると笑つて云つた。
「尤もK・H氏は三谷氏とは論敵ですがネ、つまり三谷氏は本木説、K・H氏は大鳥説と云つたぐあひですな。」
 どちらに加擔するでもない風に、M・T氏は笑ひ聲をあげたが、そんなに前提するところをみれば、私を三谷派とみたらしい。
 しかし私は專門家同志の論爭に對して、かかづらふ程の知識も資格もないので、M・T氏から紹介名刺をもらつて、そこを出たが、心ではこの「活字の元祖爭ひ」はあまりに明らかであると思つてゐた。大鳥圭介が幕府開成所版に錺屋につくらせた鉛活字を用ひたことは、印刷史上特筆す
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