岡へんまで行脚して、本木の遺族や平野の未亡人などから聽き得たこと、或は寺社や舊幕時代から、土地に殘つてゐる文章などから探しだした貴重なものだつた。
「偶然だナ、まつたく偶然だ。」
 H君はまだ云つてゐた。なるほど私と三谷氏との邂逅も偶然だつたが、本木傳に關心をもつて寄り集つたのが、三人とも印刷工だつたといふことも偶然だつた。
「あんたも本木昌造について何か書きなさいよ、ぼくも書く、宣傳するだけでも何かのためになる。」
「さうだネ。」
 私もボンヤリと天井をみあげながらこたへた。本木昌造を書くことは日本の印刷術を、日本の活字を書くことだ。そしていま死の迫つてゐる三谷氏のことを思ひ合せると、それを書く自分らの仕事が、次第に偶然ではない氣がしてくるのであつた。
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        サツマ辭書


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      一

 三谷幸吉氏が亡くなると、生前にあづかつた「本木昌造、平野富二詳傳」の再版原稿が、私にとつては遺言のやうな形になつた。つまり三谷氏の志を繼いで、私も近代日本印刷術の始祖ともいふべき人について、その功績を讃へるために何か書かねばなら
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