る人もないので邪魔はなかつたが、三十分くらゐのつもりが疾つくに過ぎたので、私はH君を促した。すると三谷氏はまだ殘り惜しげに、例のほそながい指を振つてみせるのだつた。
「ぢや、あしたまたきてくれたまへ、ネ、君たちにやりたいものがあるから、あしたとり寄せとくから――」
細君も廊下まで出てきて、病人と同じやうに、あしたきてくれと繰り返すのであつた。襷を弄くりながらオドオドした調子で、もう見込みのない夫のために、最後の願ひがたとひどんなことであつても、無條件に尊重したい細君のひたすらな氣持があらはれてゐた。そしてしまひの方は涙でかすれる聲で云ふのだつた。
「ちかごろ、うちがあんなに喜んだ顏をみるのは始めてでございます。――あたしにはよくわかりませんけれど、うちは若い頃からもう本木先生の研究ばかりだつたので、よつぽどうれしかつたんでございませう――」
もちろんH君も私もまた明日訪ねる約束をして病院を出たが、再び澁谷驛でわかれるまでH君はあまり口をきかなかつた。三谷氏への想像があまりにちがつてゐたこともあるが、研究家などといふものの生涯が、どんなに華々しくはないものか、眼の邊りに見たからで、私
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