間を往復させるといふ意味であるが、文中幸八の名があつて昌造の名が出ないのは、昌造は長崎奉行配下で目下江戸出役中ゆゑ、幕府へは憚りあつたのであらう。
その船が雛型どほりうまくいつたか? またいつ出來あがつて、江戸内海でどんな風に試運轉したか? それはわからないが、翌年八月、その船が土佐へ無事※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]航してきたことは、既に歸國してゐた寺田志齋の日記に見える。「四日、由比猪内ヘ過ク。夫ヨリ出勤。今日ハ早仕舞九ツ時退ク。――蒸汽船江戸ヨリ※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]着ス」そして同じ八月二十三日には「――四ツニ出、八ツニ退ク。今日雅樂助君(容堂弟)蒸汽船御見物ニ御出。余モ亦往ケトノ命アリ、先ヅ三頭ニ至ル。少將公御出也、頃之御歸座、遂ニ彼ノ船ニ御上リ、余モ亦隨フ、此船余前官ニテ江戸ニアリテ頗ル此議ニ預ル、只迅速ナラザルノ恐アリシニ、果シテ進ムコト遲々タリ――」
「東洋傳」には、この蒸汽船が警護の傳馬船よりもはるかにのろくて、人々困惑したといふ趣きが書いてあるが、また機械でうごく船をみて人々がおどろいた趣きも書いてある。とにかく昌造及び幸八による、日
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