佐藩の船が築地で出來上つて、土佐の港で運轉したのは翌二年の八月だが、薩摩藩の昇平丸が江戸へ※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]航してきたのは同じ二年の四月である。土屋喬雄氏の「封建社會崩壞過程の研究」によれば、薩摩藩は嘉永五年に蘭書に基いて蒸汽船雛型を作つた。表面は琉球警備に名を藉りて幕府の許可を得てゐたもので、水戸齊昭の主唱によつて「大船建造禁止令」が打破されるや、建造中のその一隻を幕府に獻納したものだといふから、「東洋傳」の限りでは一歩遲れてゐることになる。
しかしそれはとにかく、土佐藩は昔から船では名のある國で、土佐と薩摩は建艦競爭してゐたといふから、「禁止令」解放後先鞭をつけたことは疑ひなく、昌造としても生涯の名譽の一つであらう。昌造持參の蒸汽船模型がどんなものであつたか、それは今日何も傳つてをらぬのでわからぬが、大きな水溜か何かで運轉してみせたらしい。「東洋傳」中、引用の寺田志齋の日記は、それを見物してびつくりしてゐる。
「七月朔日(安政元年)晴天、九ツ過ニ退ク。遠江守樣御出ニ付、八ツ頃再ビ出動、直チニ退ク。長崎鹽田氏幸八ト云者、蒸汽船雛型持出シ、御馬場ニ於テ御覽アリ
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