國論者、文久二年攘夷派の志士に暗殺された人である。この文にいふ「下田に來るの途次、轉じて江戸に入る」といふところは、前記したやうな昌造の動靜から推しても異つてゐるやうだが、いづれにしろ昌造が造船その他海外科學に造詣がある人間だといふことは、當時その方面の人に知られてゐたらしい。明治四十五年御贈位の内申書には「蘭話通辯」の他に「海軍機關學稿本」などがあつて、多くの印刷術發明に功勞のあつた人々が他の部門でもさうであつたやうに、昌造も日本の艦船發達の歴史では、その名前を缺くことの出來ない一人となつてゐる。「翌二年豐信參覲交代の期に際し、歸國の後之を高知に※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]漕し、浦戸港内に泛べ、豐資その他連枝及び諸士に縱覽せしめて西洋事情の新奇進歩せる實物標本を紹介して、大いに頑夢を覺醒せしむるところありたり」
土佐藩士を「大いに――覺醒せしめ」たのは勿論吉田東洋のことを云つてゐるのであるが、土佐藩の洋式船舶建造が東洋の發起であるならば、昌造を推薦したのも東洋かと思はれるし、東洋と昌造は若干の知己であつたかも知れぬ。しかし土佐藩の洋船が日本で最初かどうかは疑はしい。土
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