産んで、次男小太郎を産むまで、嘉永六年から安政四年まで四年間のあひがあるといふこととも比例してゐる。
 安政元年の七月に、昌造が土佐侯の築地の造船場にゐたことは前に述べた。「吉田東洋傳」に見える引用文では九月初旬まで昌造の名が出てくるが、恐らく彼は九月中旬まで江戸にゐて幕府天文方の仕事をしてゐたのだと思はれる。つまり神奈川條約成立後、ペルリの退帆が六月で、九月下旬大阪の安治川尻にあらはれたプーチヤチンの船へ幕府の諭書を持參するまでの期間である。それに箱館奉行經由のプーチヤチンの書翰を森山(當時榮之助)と連名で飜譯してゐる事實からみて、天文方の仕事もしてゐただらうと判斷するわけであるが、「東洋傳」によれば、昌造は江戸において最初の洋式船舶建造の功勞者といふことになつてゐる。
「安政元年七月、長崎の通譯本木昌造、公用を帶びて下田に來るの途次、轉じて江戸に入る。八月廿九日、豐信(容堂侯)昌造を召して海外の事情を聽き、携ふるところの蒸汽船の模型を見、隨從の工夫幸八に命じて、更に模型を作らしめ、幕府に請ふて試運轉を爲す。是れ江戸に於て、洋式船舶製造の濫觴なり――」
 吉田東洋は土佐藩の船奉行で開
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