、實ニ奇ト云フベシ。右見物ニ暮前ニ出デ、日暮テ退ク」とあるから、その馬場は土佐藩士の見物でいつぱいだつたらう。
 ここでいふ「鹽田氏幸八」は昌造が長崎から同道してきた大工幸八のことで、寺田の日記にみても、昌造監督のもとで實際は幸八が船をつくつてゐることがわかる。同じ四日には昌造自身で運轉してみせた。「晴、四ツニ出ヅ、今日長崎譯官本木昌造、蒸汽船雛型持出シ御覽アリ。朔日ニ上ツリタルヨリハ大ニシテ仕形モヤヤ精密ナリ、七ツ過ギ退ク。夜澁谷、傳氏ニ行ク、小南、朝日奈、出間ト同クス。四ツ時カヘル。昌造ノ咄ニ此度ビ、魯西亞、獨兒格(トルコ)ト戰ヒ、英佛ノ二國獨兒格ヲ援ク、魯西亞ノ軍艦十隻爲メニ英軍ニ獲ラル」と志齋は書いてゐる。四日の雛型は朔日のそれより大きく精密なものを昌造自身で運轉してみせたのであらう。この文で見ると、あとにつづく日記のそれと綜合して、昌造は土佐藩士澁谷傳氏といふ人の邸にゐたのだらうか。小南とか朝日奈とか出間とか、同藩士かどうかわからぬが、そんな人達がやはり來合せてゐて、昌造からクリミヤ戰爭のニユースなどを聽いてゐる容子がわかる。昌造の咄ぶりがどんなだつたか知る由もないけれど、海
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