が、假に何らか新らしい見解が彼にあつたとしても、さういふ風俗なり慣習上の問題は當時の過渡的な政治や科學よりむづかしいもので、明治の維新なくしては考へられぬことであらう。彼は一般に科學者とだけみられてゐるし、彼の著書もそれ以外には見ることが出來ぬやうである。「印刷文明史」の著者は、明治四十五年昌造へ御贈位の御沙汰があつたとき、當時在世中であつた昌造の友人諏訪神社宮司立花照夫氏、門人境賢次氏などを長崎に訪ねて、昌造についての感想を求め、次のやうに書いてゐる。「――當時氏の眼中には最早渺たる一通詞の職はなく、世界の大勢に眼を注いで、心祕かに時機の到來を待つてゐた。この間氏は常に多くの諸書を渉獵して、專ら工藝百般の技術を研究し、殊に自己の修めた蘭學を通じて、泰西の文物を研究するに日も尚ほ足らずといふ有樣であつた。此頃に於ける我が國情は鎖國の説專ら旺盛を極め、異船とさへみれば無暗に砲撃を加へるといふ状態なりしが、昌造氏は毫も之に心を藉さず、心中私かに開港貿易の時機到來を信じてゐた。然して早晩――通商條約が締結されるであらうと考へ、先づ外國の人情風俗工藝技術の如何にも悉く調査研究して、豫め外國に對
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