い魯艦に追ひ越されたのではないかと考へる。つまりプーチヤチンの手紙が、彼の船よりおくれずに江戸へ着くことが出來たらば、「兵庫洋にあらはれた異國船」の正體が早くわかつて、大阪市中ももつと平穩であることが出來たらう。
慶長、元和以前の昔は知らず、家光以來の二百數十年、海の日本に船らしい船が造られなかつたといふことは記憶さるべきであつた。ゴンチヤロフが不思議がつた「何故貴國の船は艫のところにあんな波の入る切込みをつけて、不恰好な高い舵をはめてゐるのか?」といふ船は、日本の海岸を這ひまはるだけであつた。勇敢なる船乘高田屋嘉兵衞が國後、擇捉間の航路を拓いた苦心は、海の日本の誇るべき語り草であるが、吃水の深い波の入らない異國の船は、嘉兵衞のやうに勇敢老練でなくともその一世紀もまへから赤道を横切り、太平洋を横斷し、北氷洋から千島列島を南下することも出來た。水戸齊昭の主唱によつて幕府の「大船建造禁止法」はまづ打ち破られたが、この大きなギヤツプ、造船技術、航海技術を急速にうづめないことには、あらゆる異國船は、依然として日本の海岸を脅やかすだらう。弘化、嘉永以後、特に安政の開港以後は、當時の日本にとつて
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