パンベルグ以來アメリカよりは氣心の知れてゐるロシヤにそれを與へて、もつてペルリに對抗しようといつた説である。齊昭はペルリの退帆が六月十二日、プーチヤチンの來航が七月十八日、これは墨夷と魯戎の間に默契があるにちがひないから、「以夷制夷論」など危險だと喝破して、それを打ち破つたから、漸く前記の方針が一決して、筒井、川路の江戸出發が十月下旬となつたのである。
筒井、川路の任務も大變であつた。レザノフのときまではまだ目付遠山金四郎が一人でやつてきて、諭書を讀みきかせればよかつたが、しかしいまは、蒸汽軍艦が二日で長崎から江戸までいつてしまふ。魯戎の氣心はペルリとちがつて、何といつてもピヨトル大帝以來の對日方針の傳統が生きてゐて、若干穩和と思はれるが、結局「六十斤砲を撫し」てゐる點に變りはない。しかも「通商拒絶」を納得させておきながら、彼らの軍艦を江戸へやらぬやうにしなければならない。筒井、川路の奮鬪がどれほど深刻だつたかは、川路自身の日記や、相手方のゴンチヤロフの「日本渡航記」がよく描寫してゐるところである。さきの江戸奉行で、幕府の役人中では新知識といはれ、水野越前が自ら求めて友人にえらんだと
前へ
次へ
全311ページ中184ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
徳永 直 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング