見は、幕閣のみならず當時の志ある人々の間にはひろがつてゐたやうである。「開國」といふ言葉も、當時の政治的場面でつかはれるときはなかなか面倒であつて、專門家でさへ容易には是非を論じがたいところだらうが、ごくひろい意味での「開國」ないし海外に對する關心は、相當つよかつたにちがひなく、それは前に述べたスパンベルグ以來百餘年に亙るかずかずの異國船渡來が與へた影響だけでも、相當つよいものとなつてゐたと思はれる。しかも「開國」の端緒が「黒船來航」といふ形ではじまつたことは、それ自體歴史的であるが、いづれにしろわが國にとつて一つの危機であり、複雜な波紋を與へる緊急重大事件であつた。
 このとき昌造はちやうど三十歳である。「蘭話通辯」を印刷した翌年、「活字版摺立係」を任命される二年前であつた。通詞といふ職掌からしても、「ペルリの來航」はかくべつのシヨツクを與へたにちがひないが、そのときの彼の感想なり、考へなりを判斷しうるやうな記録は、彼自身としては、何一つのこしてゐない。
「ペルリの來航」をべつにしていへば、三谷氏は、昌造を「開國論者」だと云つてゐる。「詳傳」のなかで「急激な、然も穩健な開國論者」だと
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