書いてゐる。「本木昌造先生は、佐幕黨にはあらざるも、然し痛烈な開國論者であつたために、一時は鎖國論者の非常な的となられ、結局開國論者側からは――佐幕黨なりとの誤解を受け――當時長崎に本木昌造先生を刺さんと、それらの志士が頻りに出入して居たために、身の危險を慮り、京洛に上り、一時某公卿に身を寄せてゐられたこともある――。」この文章には長崎での云ひつたへをそのまま書いたやうなふしもあるが、「急激な、然も穩健な開國論者」といふのは面白い。昌造は尊皇、佐幕いづれの側からも誤解され、容れられなかつたらしい。これから彼の事蹟をみてゆくところだけれど、一と口にいへば、彼は「開國論をしない開國論者」であり、尊皇開國主義を一科學者としての半面だけで生きとほしたやうな人間だつたから、このときの感想も自から輪廓だけは想像できよう。
 通詞の階級としては、「小通詞過人」で、小通詞のうちで上席であつた。十五歳のとき稽古通詞となつて以來十五年、まづは順當の出世で、この頃までは養父昌左衞門が大通詞目付といふ、通詞のうちで最高の職にゐたから、殆んど世襲制の通詞として、彼の前途は約束されたものだつた。しかもこの年はじめ
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