藏何々經何部といつたぐあひである。日本印刷術中興の祖は、秀吉の朝鮮征伐、銅活字の土産物に始まつてゐて、切支丹を長崎から逐つた同じ家康が、その活字を模倣してほぼ同數の銅活字を鑄造彫刻してゐる。それによる最初の開版は「古文孝經」と謂はれるが、そのくだりは私にとつて特に興味があつた。
 勅命によつて六條有廣、西洞院時慶の兩公卿は三ヶ月に亙り、毎日禁裡の御湯殿近くの板の間で、活字を拾ひ、ばれん[#「ばれん」に傍点]で印刷する仕事を奉仕したことが、西洞院の日記にある。寫眞でみると、その活字ケースは今日のそれとまるで異ひ、字畫の似たやうなものを寄せ集めたに過ぎぬのだから、長い袂を背中にくくしあげた二人の公卿さまが、どんなに苦心して一本づつ探し拾つたか目にみえるやうで、それが日本文撰工の元祖であると思ひ、なつかしく尊い氣がするのであつた。
 世に謂ふ「一字板」の言葉のいはれもこの活字から始まつたことを會得した。銅活字はやがて木活字になり、日本の印刷術はしだいに大衆化したが、徳川の中期に近づくと、こんどは木活字が再び木版の再興に壓されてきた、と同書の著者は書いてゐる。詳しい原因は私に納得できぬが、幼少
前へ 次へ
全311ページ中18ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
徳永 直 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング