は特別室の顏馴染だつたが、醤油のこぼれたテーブルを鼻紙で拭いて、うすい和綴の本を擴げてゐた。白髮の雜つた口髭も頭髮もだいぶのびてゐる。時折眼をあげて、女給たちの喋くつてゐる料理場の窓の方を見るが、またゆつくりとその蟲の喰つた木版本の上へ戻つてくる。氣がつくとその男がストーヴの方へ持ちあげてゐる竹の皮草履をはいた足のズボンには穴があき、足袋は手製らしく不恰好に白絲で縫つてあつた。
 私は少し恥かしく思つた。讀書人も十分に戰爭の中にゐるのだつた。彼等は爆彈が頭上におちてきても、自若として自分の研究を遂行するために、書物から眼を離さぬだけの覺悟はもつてゐると思はれた。
 ときたまの圖書館通ひであつたが、いつかその空氣に馴染んでゆくうち、おぼろげながら日本印刷術の輪廓がわかつてきた。ロンドンの大英博物館に世界最古の印刷物として保管されてゐるといふ陀羅尼經以來、日本の印刷原版は木ないし銅の一枚板であつた。もちろん唐や天竺の坊さんと一緒にきた印刷術であつて、量的にもいかにわづかであつたかは「古活字版之研究」にある附圖、室町末期の日本全土における印刷物の分布圖をみても明らかだ。何々の國何々郡何々寺所
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