永六年(一八五二年)アメリカの黒船四隻が浦賀へきて、日本をおどろかしたと謂はれるが、そのおどろきの劃期的な意義は、おそらく黒船の形にあつたのではなからう。長崎港を無視して、禁制の江戸灣へ侵入してきたことと、不遜にも武力をもつて開國を迫つたといふ、ペルリのやり方にあつたのであらう。「――黒漆のやうに相見え、鐵をのべたるがごとく丈夫にて、船の兩脇には大石火矢を仕かけたる船――」が日本海岸に出現したと、時の伊達藩廳が江戸へ早打ちをもつて注進したのは、既に元文五年(一七三九年)にはじまつてをる。もちろんこれはアメリカの船ではなく、ロシヤの船であつて、時の幕閣は(陸へあがつたらば取りおさへておいて、直ちに注進せよ)と、のんきな命令をだしてゐるが、以來百餘年の間、日本のあちこちに、さまざまの黒船があらはれた。
 仙臺藩廳をおどろかしたロシヤの黒船は、海軍中佐スパンベルグの日本探險船であつた。この船は享保十九年(一七三三年)クロンシユタツトを出て、遠く喜望峰を迂囘しながら太平洋を北上しつつ、二年後にオホツクに到着、五年後の元文四年にオホツクで新たに建造した三隻の船をもつて、一度び千島列島を南下してき
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