語集成」の序文を庄左衞門が誌して曰く「諳厄利亞國は往昔其職責を禁ぜられ其言詞を知る者あらず、文化己巳來航和蘭人ヤンコツクブロムホフ其國語に通ずるに因て我譯家肇て彼言詞習得するを得たり辛未の春諳厄利亞興學小筌を譯述し我黨小子に援け外警に備ふ幸に九月言語集成譯編の命あり於斯彼言詞を纂集し旁和蘭陀佛蘭西の語に參考飜譯して遂に皇國の俗言に歸會して是に配するに漢字を以てす」云々。
 私はこの短い序文のうちに、日本に英語が入つてきた徑路とか、その社會的事情とかがわかる氣がする。「我黨小子を援け外警に備ふ」云々は、つまり庄左衞門を中心に、有志の通詞たちがひそかに他日にそなへて、英語を習得してゐたことをいふのだらう。文化己巳は六年で、先だつこと二年であるが、さらにその前年、文化五年の「英船事件」を思ひ起すとき、私らは庄左衞門の意圖が、よりはつきりわかるではないか。「英船事件」とは有名な、和蘭の國旗を掲げて長崎港に不法侵入してきた英國軍艦「フエートン號」のことである。「フエートン號」の眞意が、和蘭本國を降伏せしめた新興英國として、その出先の和蘭商館を占領するにあつたとしても、同商館は半ばわが庇護下にあつたため、出來事は錯雜して、時の長崎奉行松平圖書をはじめ佐賀藩の重役五名が責をひいて切腹したといふ事實である。當時庄左衞門は公用を以て江戸に在つたが、「英船事件」發生に遭ふや滯留を命ぜられ、英文の通譯に當つたといふから、ブロムホフに就學する以前にも若干は獨習してゐたかと思はれる。
 いづれにしろ本木一家の系圖にみても、庄左衞門の時代となれば、海邊は急激に多事であつた。從つて彼の譯書にも「海岸砲術備用」とか「海程測驗器集説」等があつて、外交海防に盡すところ多かつたし、のちに父良永と共に正五位を贈られてゐる。
 庄左衞門歿後、洋學年表では嘉永元年の項に「昌造名永久――庄左衞門の孫なり」といきなり出てきて、昌造の養父昌左衞門はまるで缺落してしまふ。しかし昌左衞門が庄左衞門の實子であり本木家五世であることは、三谷氏の家系圖のごとく私は信じたい。若し庄左衞門に男子がなかつたならば、昌造の母繁を北島に嫁がせることをせず、養子を娶せたであらうからである。昌左衞門が何故年表にあらはれぬか、見るべき事蹟がなかつたからかどうか、私にわからぬが、「昌造――庄左衞門の孫なり」といふからには、如電も昌左衞門の存在を否定してゐるわけではない。
 そこで漸く、私の主人公、本木六世、三谷氏系圖では第七世、昌造が登場してきたのであるが、かくもくどくどと本木家系圖を述べたてていつた理由を、讀者よ、諒解して欲しい。カメノコタハシや魔法コンロの發明とちがつて、文明史のうへに足跡をのこすやうな、何か根本的な發明なり改良なりには、相應のたかい精神が必ず裏づけられてゐるものと私は信ずる。つまり、近代日本の文化の礎石の一つとなつた活字の創造、或は移植をした昌造の精神に、かうした數百年にわたる家系が、何らか影響するところなかつたらうかを、私はみたかつたのだ。

      三

 伯父昌左衞門の養子となつた幼名作之助は、のち元吉、昌造と改めたが、十一歳以後は通詞たるべく勉強したにちがひない。養父の手ほどきをうけ、通詞稽古所に通ひ、或は養父の手びきで、直接蘭館の外人たちからも學ぶところあつたであらう。そして、昌造の時代となれば、和蘭通詞も蘭語だけではなかつたと思はれる。既に家系にみたやうに庄左衞門以來は、佛蘭西語や英語の傳統があつたからであるし、天保、弘化、嘉永とちかづくにしたがつて、異國船打拂の改正令が出たほど、外國船の來航は繁くなつてをるし、必要になつてゐるからである。
 かくして昌造は横文字を習ひ、通詞たるべき資格を養ひつつあつたが、ではそれは同時に「洋學者」でもあつただらうか? 私はいままで通詞と洋學者を一緒にしてきたやうである。なるほど長崎における和蘭通詞と蘭學の發達は切つても切れない關係がある。事實、それは日本における洋學に貢獻したし、醫術における楢林流、吉雄流を出し、天文において本木、志筑の諸家があり、砲術における高島、本草學における吉雄、その他、殊に語學においては職業柄多くの先驅的學者を出してゐる。しかし、通詞は、幕臣、藩臣、或は町人出の所謂「蘭學者」と同じ性質のものであつたらうか?
 通詞とはまことに特殊な職業であつた。私の貧しい知識でいつても、ごく稀な場合「幕府譯官」などと敬稱されるが、普通には「長崎通辯何の何兵衞」といつた卑しい言葉で、そこらの輕輩武士からも捨言葉される傾きがあつたやうだ。例へばのちにみるやうに、土佐侯容堂の造船企畫について昌造が與かつた當時のことを、同藩家來寺田志齋が、その日記のうちで、かなりの捨言葉で誌してゐるのにもみることが出來る。しかし通詞は幕臣ではなく
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