ばれて初代の通詞目付となつた。よほど人物だつたらしく、延寶四年に他の通詞名村、中島、楢林らと共に「阿蘭陀風説書」を和解して幕府に呈出したなどの記録もあり、醫事にも通ずるところがあつて「和蘭全躯内外分合圖」などの著書もあるから庄太夫の蘭語も口眞似だけではなかつたとみることが出來る。その他和蘭甲比丹の「江戸參觀」に差添通詞として參觀すること九囘に及ぶといはれてゐる。この頃の「江戸參觀」(和蘭甲比丹の將軍拜謁)は毎年行はれたもので、後に見るごとくその行事はいろいろと時の政治や文化的動向にも觸れるところがあつたし、通詞としてもなかなかの大役だつたから、庄太夫といふ人は通詞としての技倆以外にも重くもちひられる人柄であつたのだらう。
洋學年表元祿十年の項によれば「十月和蘭通詞目付本木良意死す、子市郎助年僅に七歳」とあるが、三谷氏の家系圖では本木二世「武平次」とある。そして三世本木仁太夫が元祿四年生れで、このとき丁度七歳である。だから洋學年表でいふ「子市郎助」とはたぶん仁太夫のことで、「市郎助」は仁太夫の幼名と推測されるが、すると武平次なる人物は内縁の養子ででもあつたらうか? とにかく洋學年表にしろ、「蘭學の發達」にしろ、武平次なる人物はみえず、多くの傳記が庄太夫から二世は初代仁太夫となつてゐる。しかし三谷氏の家系圖でみれば、初代仁太夫、つまり「市郎助」が書いた庄太夫の墓の碑文に「元祿十年十月十九日本木武平次之を建つ」とあるのださうだから、血縁か否かは知らず、とにかく武平次なる人があつたにちがひない。通詞だつたか否かも私には知る術がなく、いまは洋學年表に從つて、庄太夫死後は十數年打ち絶えて、七歳の市郎助二十二歳ではじめて登場してくるのについてゆかう。
本木二世初太夫(三谷氏では三世)は寛延二年五十六で死んだ。庄太夫と同じくのち剃髮して良固と稱したが、努力にも拘らず生涯稽古通詞から陞れなかつたが、その良固が蘭學者としては知られてゐるのが面白い。洋學年表享保元年の項に「下欄ハ學者ノ忌日ヲ記入スル處ナレドモ第一年ハ現存者ヲ列記ス如左」とあつて、西川如見六十九歳、新井白石六十歳、細井廣澤五十九歳、野呂元丈二十四歳などと、年齡順にきて、「長崎人本木仁太夫二十二歳」と書いてある。
良固の生涯でもつとも特筆すべきことは、延享二年、通詞西善三郎、吉雄幸右衞門と共に、和蘭文書を讀んでもよろしいといふ特許を得たといふことであらう。衆説によれば當時洋書を讀むことは一般に禁ぜられてをり、この頃江戸で青木文藏(昆陽)等が運動して、吉宗將軍をして「洋書解禁」の令を出さしめたといふのが、杉田玄白らの「蘭學事始」に謂ふところと併せて有名な出來事となつてゐるが、これについて板澤武雄氏は「蘭學の發達」の中で次のやうに反駁してゐる。「――八代將軍吉宗の時に至り、通詞西善三郎、吉雄幸右衞門、本木仁太夫から右の有樣を申立て、横文字を習ひ、蘭書を讀むことの免許を幕府へ願ひ出で――許可せられたといふ。――右の説が長い間そのまま信ぜられてゐたが、延享二年といへば日蘭兩國人の接觸が始まつてから百四十餘年を經てゐる。この間――貿易の實務に當つてゐた通詞が、横文字一つ讀めないでその職責を果し得たであらうとは常識からしても考へ得られないことで、蘭學事始の所傳の信じ難いことは古賀十二郎氏も「長崎と海外文化」に於て夙く指摘せられてゐるのである」云々。
素人の私にこの板澤説と洋學年表説のいづれと判斷する力はない。しかし一世庄太夫にして「和蘭全躯内外分合圖」(これは孫二代仁太夫によつて出版されたが)の著書があるのにみても私は板澤説に加擔したい。ましてや三谷氏の本木傳にみる、青木昆陽が長崎を訪れて良固らと洋書解禁のことを圖つた云々は、素人の私も信じないところである。しかしながら板澤氏自身も同書で認めてゐるやうに、當時の和蘭通詞らがいかに蘭文學に暗かつたか、例へば、切支丹本の密輸さへ書物を見ながら指摘し得なかつたと與げてゐるごとくであるし、「日本囘想録」による甲比丹ヅーフの通詞らの蘭語に對する所見もまた同樣である。
つまり私の信じたいことはかうである。西、吉雄、本木の蘭書讀譯の免許云々は洋學年表説の如くではなかつたか知れぬ。しかし當時の通詞らの蘭文學への暗さは、後に見るやうに通詞制度が産んだ卑屈な一般的性格にも由來する向學心の乏しさにもあらうし、洋書禁制ではなかつたにしても、口辯の通譯を以て足れりとする、「鼻紙に片假名で發音を書きとつた」といふ式の通譯で足れりとしたもののうちには、單に通詞らの卑屈さのみでなく、それをよしとするところの幕府の方針といつたものがあつたのではなからうか? もちろんそれは通詞といふ職制度と一見矛盾する。しかし家光鎖國の方針と貿易とが矛盾するやうに、そこに確然たる禁制の掟は
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