の弟子であつた長英、また「夢物語」や「愼機論」やを、昌造など直接讀む機會をもつたか否かはわからぬにしても、幕府の「打拂令」について洋學者たちがはじめて觸れた政治的見解であつたから、贊不贊は問はず、同じ洋學をやる昌造には、ニユースの早い長崎で、何かと感ずるところがあつたと思はれるし、天保十三年の「改正令」が出たときは、職業柄昌造たちには現實的にひびくところがあつた筈である。
私は昌造の幼少時について傳へる文獻を知らないから、こんな世上一般の動きを考へて、その一面を推し測つてみるのだが、長崎といふ地にあつて、通詞を職とする家にあれば、その影響するところも、單に國内的なものばかりではなかつただらう。年々歳々、これだけは家康の渡海免許の御朱印状を持つてゐて、貿易のために渡來する和蘭船のほかに、當時のさだめとして、日本の土地のどこに漂着しても、必ず一度は長崎におくられてきた、毛色眼色のちがつた異國人たちに接してゐれば、あれこれと海外の珍らしい出來事も聞きかじつたと察することが出來る。
そして昌造が五歳の年、一八二八年にはアメリカ大陸にはじめて汽車がはしつたのであるし、昌造十一歳の一八三四年にはヤコビの電機モーターが發明されてゐる。翌十二歳の一八三五年にはモールスの電信機が完成してをり、同じ年にコルト式拳銃が發明されてゐる。さらに昌造十五歳の一八三八年、日本で長英、崋山が捕へられた年には、はじめて大西洋に黒煙をなびかせながら蒸汽船が、つまりこれより十五年後の嘉永六年、日本をおどろかした黒船が波を蹴立ててはしつたのである。
二
本木の家は和蘭通詞のうちでも、名村、志筑、石橋、吉雄、楢林らと並んで舊家である。三谷氏つくる家系圖に據れば、その祖を明智光秀の孫、林又右衞門に發してゐると謂はれ、又右衞門より三代庄太夫のとき本木姓を名乘り、松浦侯に仕へ肥前の平戸に住したとある。庄太夫より祐齋、つづいて同じ名の二代庄太夫がはじめて平戸より長崎に移住、通詞としての本木家元祖となつた。
同家系圖では移住の年號が明らかでないが、洋學年表では「平戸人本木庄太夫――是年長崎に移住す、後寛文甲辰小通詞となり、又五年寛文戊申大通詞に陞る」とあつて、「是年」は萬治二年である。庄太夫は元祿十年七十歳で死んでゐるから、移住の年は三十六歳の壯年であつた。
この時代の日本人はどういふ風にして外國語を習得したのだらうか? 仔細のことは私にわからぬが、前掲書には「庄太夫、本姓林氏、世々松浦侯に仕へ、少より和蘭館に出入して其言語に通ず」とある。つまり外國人に接してゐるうち、口うつしに發音だけをおぼえていつたのだらう。從つて長ずるには一種の記憶力といつた才能が必要なわけで、庄太夫は秀でた資質があつたらしい。ただここで腑に落ちぬ點は、和蘭商館が平戸から長崎出島に移轉したのは寛永十八年のことであつて、庄太夫移住の萬治二年を距つること十七年前だといふことである。だから「幼より和蘭館に出入し」といふのは、庄太夫十九歳以前のこととなる。同じ肥前であつても平戸と出島は、當時の交通からみてはよほどの距離であるし、移轉後の商館にちよいちよい出入は出來まいと思はれる。しかもまた庄太夫が通詞として召抱へられたのは寛文四年と、板澤武雄氏「蘭學の發達」にはみえてゐるから、移住後萬治二年から五年後に屬する。してみると庄太夫は、その管轄領主であつた松浦侯に仕へながら、長崎移住後も何らか和蘭商館に關係ある役柄でも勤めてゐたのだらうか?
いづれにしろ蘭語について、たとひ口眞似だけの理解にしろ、才能をもつた人物は當時珍重されたのにちがひない。周知のごとく將軍家光は切支丹禁制の施政を強化するために、平戸にあつたポルトガル、支那、和蘭等の商館を、長崎港の沖合に島を築いて、そこへすべてを收容したが、一方、貿易事業は日を逐うて旺んになつていつたし、フオン・シーボルトの「日本交通貿易史」によると、「此時(一六七一年、寛文十一年)は、イムホツフ總督(東印度會社の支配權を握る蘭印總督のこと)が、日本における和蘭貿易の黄金時代と云ひたる頃なり」とあつて、日本の輸出高は和蘭のみで、年々四五十萬兩にのぼつたころである。しかも日本から積出されるものは最初に黄金、つぎは銀、つづいて銅といふぐあひで狡智なヨーロツパ商人どもに乘ぜられて、怖るべき勢で貴金屬を失ひつつあつたのだから、幼稚な幕府もおどろいて、それらの危險を防ぐ施策の一つとして、より澤山の和蘭通詞をもとめてゐたと考へられるし、幕府は松浦侯に命じて庄太夫を召抱へたのだと察せられる。
庄太夫は、諱を榮久といひ、のち剃髮して良意といつた。四十一歳で小通詞となり、四十六歳で大通詞に陞つた。彼が六十八歳のとき、幕府は和蘭通詞に目付をおく制度を設けたが、庄太夫はえら
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