ルマ型プレスのそばに、しばらくはたつてゐた。そして頭の中では、一方では「伴大納言繪詞」から「八犬傳稿本」までまつすぐにきて、また片方では高速度輪轉機や動力式ロールやダルマ型プレスといふ順に、明治のむかふまで遡ることが出來ながら、たちまちにしてオランダといふとんでもないところへ逸れていつてしまふのだつた。
 眼をうつすと、片方の壁には、等身大の文撰工たちが、てんでに文撰箱や原稿を握つて、活字ケースにむかひあひながら作業してゐる、製版工場の大きな寫眞が貼つてあつた。寫眞の中の文撰工たちは霜降り小倉の制服を着て、靴を穿いて、朝日のマークのはいつた作業帽をかぶつてゐる。私たちが唐棧の素袷に平ぐけの帶をしめて、豆しぼりの手拭など頸にまいて作業してゐたのに比べると、ずゐぶんちがふ。しかしケースの配置も、作業順序も、つまり中身は昔のままだつた。しひていふならば、活字のポイント制がもつと嚴密になり、紙型を澤山とるやうになつたために、地金の硬度が強化されてゐるくらゐのことであらう。
 そしてここでも、木版と鉛活字との間の距りがつよくでてくるのだつた。それにダルマ型ハンドプレスがオランダから渡つてきたといふのはそのままのみこめるが「活字も外國からきたのだらう」では濟まないものがあるやうに思へた。たとへば電車も自動車も蒸汽船も外國から來た。それは舶來のままで、日本の道路を走り、日本の海を走つたが、しかし活字はさういふわけにゆかぬ。字體もちがふ。文字の數もちがふ。外國の書物と日本の書物を比べても、製版の形式もちがふのがわかる。つまり電車は外國で作つたものでも、日本のレールを走ることが出來るが、活字はすこしちがふのだ。
 誰が、日本の活字を創つたらう? どういふ風にして創つたのだらう? 私は會場を出て寛永寺の坂を廣小路の方へくだりながら、そんなことを考へた。プレスやロールはオランダからでも眞ツすぐにこられる。しかし活字は、外國からきたにしても、きつと日本的な道行があるにちがひない。誰が日本の活字を、どういふ風にして創つたか? それがわかれば「伴大納言繪詞」から「八犬傳稿本」から近代小説まで、つまり日本印刷術の傳統が眞ツすぐにつながらうといふものだ。

      二

 私はときをり上野の帝國圖書館や、九段下の大橋圖書館に通つて、印刷に關する文獻を讀み漁つた。そして印刷に關する書物では、大橋圖書館にくらべると、やはり上野の圖書館の方がはるかに豐富であつた。
 私はそこで「世界印刷年表」とか、「印刷局五十年史」とか、「南蠻廣記」とか、「印刷文明史」とか、「世界印刷通史」とか、「現代印刷術」とか、「古活字版之研究」とかいつた書物を讀んだ。そのほか明治末期から大正へかけて、印刷文化の大衆化につれて印刷屋を開業しようとする人のための手引きといつた、ごく通俗な書物にもぶつかつたが、名前をおぼえてゐるやうな本はたいてい立派なものだつた。なかでも「古活字版之研究」や「印刷文明史」や「世界印刷通史」などは、量的に厖大なばかりでなく、世間からはあまり顧みられない特殊な研究の一テーマのために、自分の生涯を捧げつくしても尚足れりとしないやうなきびしさがあつて、私は壓倒される氣持がした。
 しかし私のやうな入口も出口もわからない初心者のつねで、それらの書物を忠實に讀んだわけでもコナしたわけでもない。その著者に對しては申譯ないやうな氣儘な讀み方もする。目次をひろげて面白さうなのを飛び讀みしたり、それかと思ふと熱心に書き拔きしたり。ある書物では、四千年前バビロニア國のバビロニア人が、粘土の上に文字を書いた。學校があつて、學校の門は粘土の山で出來てゐる、生徒たちは登校すると、てんでに門の粘土をくづしとり、一ン日書いたりくづしたりして、をはるとまたその粘土で、門の山を築いて歸つていつたといふ話を、著者の想像らしい※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]畫と共に面白く記憶にのこした。また別の書物でバビロニアだかどこだかの女王が、自分の傳記みたいなものを粘土に書いて瓦に燒いたものが四千年後の今日發見されたといふ文章が、つまり私には「紙」以前に何に印刷されたかといふことで興味があつた。やはり西洋歴史の「貝殼追放」なども、貝殼に文字を書いた歴史であり、その後は牛や羊の皮に文字を書いて、一卷の書物は今日の呉服店のやうに大きな丸束にして書物の値段札がブラさげてあつたといふ。支那の畢昇が粘土で活字を作つたのは、グウテンベルグに先だつこと五百年だが、日本の陀羅尼經、天平八年法隆寺の印刷物はまたそれに先だつ二百八十年といつたやうなこと、その陀羅尼經の原版が木であつたか銅であつたかといふ詮議を、著者と共にボンヤリ※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−
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