侍の繪の配置が、今日の凸版や寫眞網版でする配置の趣向と同じであるのにおどろいてゐた。そして咄嗟の感じではあるが「伴大納言繪詞」などをロマンのはじまりとすると「八犬傳稿本」でも、まだ繪と文は確然と分離してゐないと思つた。文字は獨立してをらず、版木に彫られるときは繪も同じであつたらう。「伴大納言繪詞」と「八犬傳稿本」と、千年の歳月を距てて、形からみた日本ロマンの傳統といふものを考へることは、印刷工であつた私には興味があつた。それに「大納言」をはじめ第一室にあつた幾つかの繪詞類は、一枚の紙がすべてである。著者であり、印刷者であり、出版者であつた。「八犬傳」ではそれに版木が一枚加はつたことで、もはやロマンの性格からしてちがつてきてゐるやうであつたが、しかしさらにそれを今日の複雜な印刷術の發展にまでおよぼしてみると、じつにはるかな、はるかな氣がするのである。それは「八犬傳」と「大納言」を距ててゐる千年の歳月よりももつととほい氣がした。何よりも今日では、文字は繪を離れて獨立してゐるといふことだつた。
特別室の入口には「印刷文化の歴史」と書いた紙が貼つてあつて、室のテーマを示してあつた。最初の方は朝日新聞が創刊當時使用したといふ由緒書のある、古風な美濃判型ハンドプレスとか、半紙型ハンドフートなどの實物が陳列してあつて、次には寫眞で菊八頁の足踏式ロールとか、動力式四六全判のロールなどが年代順に示してある。それからは一擧にマリノン式輪轉機とか、高速度朝日式輪轉機とか、めくらむばかりの急速な印刷機の成長が觀衆をおどろかせてゐた。殊に實驗中の寫眞電送機のまはりはいつぱいの人だかりで、室ぢゆうの人氣をさらつてゐた。
しかし「印刷文化の歴史」とは云つても、この室はつまり明治以降の印刷術であつた。室のうちをボンヤリ見※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]しながら、私の頭では「八犬傳稿本」のばれん[#「ばれん」に傍点]刷り印刷術からここに至る、その中間がどつかで途切れてゐる。ハンドプレスや足踏ロールに電動機が加はつたことも、たしかに一つの革命的發展であるが、しかしばれん[#「ばれん」に傍点]刷りからハンドプレスに、即ち機械力に變つたといふことは、もつと、もつと大變なことに違ひないが、その道行きが私には解せないのであつた。
そのうち私は、フト足もとに思ひもかけずなつかしいものをめつけてびつくりした。そこは人氣の乏しい室の片隅で、古風な、それは朝日新聞が創刊當時使用したといふのよりもつと古風なハンドプレスが、誰一人觀てくれるものもなく、ころがされてあつた。不恰好に大きく彎曲した二本の支柱も、ハンドの「握り」も、支へのついた一本レールも、みんな赤く錆びついてゐる。私はわれ知らずそばへ寄つていつて、彎曲した支柱にさはりながら「おお、お前はまたどうしてこんなところにゐたのか」と、心のうちで呟いたほどである。
何十年になるだらう? 私はこの機械と共にはたらいてゐたのである。その頃十二歳だつたから、もう三十年を超える。私はハンドの「握り」に手をかけてから「手を觸れるべからず」といふ「札」に氣がついてひつこめた。ハンドの根元、すなはち壓搾盤をおしさげる胴の形も今樣の蛇腹のギヤではなくて、太鼓型の、水車風に※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]轉がすすむにつれて釘で止める式のものだつた。この一本レールに足をふんがけて、ハンドへ雙手をかけて、踏んぞり踏んぞり、一日に何百囘何千囘をくりかへしたことだらう。この赤錆びたハンドめは、私の幼い掌を豆だらけにし、いつも御機嫌のわるい壓搾盤めは、どんなに工夫しても右肩だけを強くおとす癖をもつてゐて、刷り物をムラにしては、兄弟子たちに幾度インクベラを叩きつけられたか知らない。もちろん御機嫌のいいときもあつたわけで、いそがしい年末の徹夜業のときなぞは、私はなかば眠りこけて、このハンドにブラさがつてゐたやうなものだ。
それは昔の幼な友達であつた。しかしまるい支柱を撫でながらフトむかふの壁の貼紙を讀んだとき、またびつくりした。貼紙によれば、これが宣傳にあつた、幕府時代にオランダからある大名に獻上されたダルマ型ハンドプレスといふことだつた。私は指を折つて數へてみた。十二歳は明治四十三年である。すこし年代が距りすぎてゐる氣がするが、もちろんこのオランダ渡りのハンドプレスそのものが、三十年前九州の片田舍で私の使つてゐた機械ではあるまい。しかし電動機が九州一圓にも普及したのは、もう大正になつてからだから、このオランダ渡りはその見本となつて、日本でも製作され、同じ型のものが九州の片田舍では何十年も使用されてゐたのであらうか。
私は偶然ながら昔の友達に逢へた喜びのほかに、印刷機械の歴史を四五十年遡ることが出來たのを覺えながら、その古風なダ
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