13−28]畫を眺めてゐたりすると、なかなか印刷の歴史も茫洋としてゐて、いつになつたら日本の木版から活字にうつる過渡期の傳統が理解できるのかわからなかつた。
もちろん獨逸人ヨハン・グウテンベルグの名は最初におぼえた。美しい※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]畫があつて、グウテンベルグがその協力者二人と一緒に、彼の作つた活字の最初の校正刷りを眺めてゐる感激的な場面である。そばに所謂龜の子文字の三十二行バイブルの寫眞があり、西暦千四百四十七年とある。西洋印刷術はまづ獨逸に始まつて、フランスからイギリスへ、イギリスからアメリカへ、また一方ではオランダやイタリーやロシヤへ、十五世紀から十六世紀へかけて西半球を擴がつていつた徑路もおぼえた。そして同じ千六百年初頭、即ち天正、文祿、慶長の頃、ポルトガルの宣教師たちははるばる太平洋を越えて、肥前長崎に西洋印刷術を傳へてゐる。所謂切支丹版のことで、これは「南蠻廣記」も「印刷文明史」も「古活字版之研究」も、力をこめて書いてゐる。
印刷機はもちろん西洋活字も「鑄造機」さへ渡來してゐると「南蠻廣記」は書いてゐる。「古活字版之研究」はたくさんの切支丹版を寫眞で紹介してゐる。殊にローマ字綴の「太平記」の印刷は、私のやうな經驗者からみてもおどろくほど立派であつた。しかし信長、秀吉、家康に至る日本の政治的事情は、西洋印刷術を島原半島の加津佐から天草に逐ひ、天草から長崎に逐ひ、つひには長崎から國外に斥けて以後、徳川三百年間はその後を絶つた。「印刷文明史」の著者は言葉をはげまして次の如く書いてゐる。「若し日本において鎖國の令出でざりしならば、我國の洋式印刷術は豐臣氏の晩年より徳川氏の初期にかけて、既に隆盛をきはめしならん」
ところが讀者の私には、切支丹版について三書三著者がそれほど力説してもまだつよくは感じないのであつた。肥前加津佐に渡來した印刷術が滅亡してから後、三百年の間、「蘭學事始」をめぐる人々や、その他澤山の日本の學者たちが、一方の欄はアルハベツトの活字印刷で、一方の欄は毛筆の墨書きでオランダの辭書を作つたやうな苦心を知らないし、林子平が「海國兵談」の版木を生命より大事に抱へ歩いた必然さを聯關して考へることが出來なかつた。大鳥圭介が鉛の鐵砲玉に文字を彫刻したとか、わけても本木昌造が、刀の目釘の象嵌に鉛を流しこんで、今日の活字字母の啓示を得たといふやうな、封建三百年の跛行的な日本文化の運命を、それこそ自分の背中にのせてウンシヨ、ウンシヨと搬んだやうな、じつに數多くのすぐれた人々の苦心が、文明開化の明治時代に生れあはせた私には、身に沁みてはわからぬからであつたらう。
帝國圖書館の特別閲覽室は、夏はまだよかつたが、冬はスチームがとほらぬので寒かつた。圖書館にゆくときはなるべく早く家を出て、閲覽室の陽當りのよい窓ぎはに椅子をとらうと心掛けても、いつも常連に先を越されてしまふ。却つて陽ざしが辷つてしまつた正午頃になつておちついてくるが、そんなときふツと眼をあげて窓外をみると妙な氣分になることがある。風に搖いでゐる裸樹の梢を越えて、鈍い灰色の雲の中から飛行機の爆音が間斷なく降つてゐた。讀んでゐる書物の時代や空氣から一種の錯覺をおこして、いま自分たちが支那事變や世界大戰の裡にあることを忘れてゐることがある。そして室の中に眼を戻すと、机の上に背中をまるくした人々が咳一つしないで、昨日も今日も同じ後ろ姿をみせてゐるのが、何か不審に思へるやうなことがあつた。
またこの圖書館の食堂は、私の知るかぎり東京の圖書館食堂で一等貧弱だと思へた。貧弱はかまはぬが、場末の安食堂のやうな亂暴さに加へて、をかしな官僚ぶりをもつてゐた。時節柄コーヒーもうどんもなかつたり、あるときはお菜だけあつて飯がなかつたりするのは仕方ないことであるが、
「お菜だけですよ、いいですかア。」
カウンターにゐる女給は拳の腹で出納器の釦を叩きながら怒つた聲でいふのであつた。しかし私の關心はそれよりも食堂に入つてくる人々の容子が、町の食堂なぞでみるそれとずゐぶん異つてゐることである。學生だらうと紳士だらうとに拘らず、カウンターの突慳貪な聲にも、まるで叱られてゐるみたいに靜かにしてゐることだつた。
あるとき割箸の屑で燃してゐるストーヴの傍で、私たちは三十分すると出來るといふ飯を待つてゐたが、三十分經つても却々飯は出來ない。私はしだいに苛々してきたが、やがて佛頂面してゐるのは自分一人だと氣がついてきた。汚れたテーブルの前に坐つてゐる學生も、さむいたたき[#「たたき」に傍点]の隅で凍える靴の爪先をコツコツやつてゐる紳士も、みんな默念としてゐる。同じテーブルに坐つてゐる二重※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]しを着た男
前へ
次へ
全78ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
徳永 直 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング