は特別室の顏馴染だつたが、醤油のこぼれたテーブルを鼻紙で拭いて、うすい和綴の本を擴げてゐた。白髮の雜つた口髭も頭髮もだいぶのびてゐる。時折眼をあげて、女給たちの喋くつてゐる料理場の窓の方を見るが、またゆつくりとその蟲の喰つた木版本の上へ戻つてくる。氣がつくとその男がストーヴの方へ持ちあげてゐる竹の皮草履をはいた足のズボンには穴があき、足袋は手製らしく不恰好に白絲で縫つてあつた。
私は少し恥かしく思つた。讀書人も十分に戰爭の中にゐるのだつた。彼等は爆彈が頭上におちてきても、自若として自分の研究を遂行するために、書物から眼を離さぬだけの覺悟はもつてゐると思はれた。
ときたまの圖書館通ひであつたが、いつかその空氣に馴染んでゆくうち、おぼろげながら日本印刷術の輪廓がわかつてきた。ロンドンの大英博物館に世界最古の印刷物として保管されてゐるといふ陀羅尼經以來、日本の印刷原版は木ないし銅の一枚板であつた。もちろん唐や天竺の坊さんと一緒にきた印刷術であつて、量的にもいかにわづかであつたかは「古活字版之研究」にある附圖、室町末期の日本全土における印刷物の分布圖をみても明らかだ。何々の國何々郡何々寺所藏何々經何部といつたぐあひである。日本印刷術中興の祖は、秀吉の朝鮮征伐、銅活字の土産物に始まつてゐて、切支丹を長崎から逐つた同じ家康が、その活字を模倣してほぼ同數の銅活字を鑄造彫刻してゐる。それによる最初の開版は「古文孝經」と謂はれるが、そのくだりは私にとつて特に興味があつた。
勅命によつて六條有廣、西洞院時慶の兩公卿は三ヶ月に亙り、毎日禁裡の御湯殿近くの板の間で、活字を拾ひ、ばれん[#「ばれん」に傍点]で印刷する仕事を奉仕したことが、西洞院の日記にある。寫眞でみると、その活字ケースは今日のそれとまるで異ひ、字畫の似たやうなものを寄せ集めたに過ぎぬのだから、長い袂を背中にくくしあげた二人の公卿さまが、どんなに苦心して一本づつ探し拾つたか目にみえるやうで、それが日本文撰工の元祖であると思ひ、なつかしく尊い氣がするのであつた。
世に謂ふ「一字板」の言葉のいはれもこの活字から始まつたことを會得した。銅活字はやがて木活字になり、日本の印刷術はしだいに大衆化したが、徳川の中期に近づくと、こんどは木活字が再び木版の再興に壓されてきた、と同書の著者は書いてゐる。詳しい原因は私に納得できぬが、幼少からの經驗からいつても、木活字は材が黄楊《つげ》にしろ櫻にしろ、屈りやすく高低が狂ひやすい。印刷機がプレスでなくばれん[#「ばれん」に傍点]であれば尚さら汚かつたにちがひない。而も再び木版に代られて、室町以前とは比較にならぬ印刷文化の隆盛をみたのは、印刷技術の進歩といふよりはむしろ當時の社會的事情にあつたのだらうか。
私の目的はしだいに近づいてゐた。徳川末期になつて海外との折衝が頻繁になり、醫術にしろ鐡砲にしろ電氣にしろ、それらが武士や町人の間に研究され實踐されるに從つて、木版や木活字は何とか改良されねばならなかつたにちがひない。三百年前肥前長崎から逐はれた「活字鑄造機」のことを思ひだすよすがもなかつた人々は、たとひ蘭書によつてその片貌は察し得ても、グウテンベルグと同じやうな最初からの辛苦をかさねたことであらう。やがて大鳥圭介による鉛の彫刻活字が工夫され、「斯氏築城典刑」など、いはゆる幕府の「開成所版」なるものが出來た。寫眞で見ても、從來の木活版に比べると同日の比ではない。
しかし私のやうな印刷工から考へると、近代活字の重要性は彫刻しないことにある。字母によつて同一のものが無際限に生産されることにある。そして本木昌造はそれを作つた。全然の發明とは云へないまでも、日本流に完成したのである。凡ゆる日本印刷術の歴史家たちもひとしくそれを認めてゐる。彼等は本木を近代日本印刷術の「鼻祖」といひ「始祖」と書いてゐる。
私は本木の寫眞を飽かず眺めた。五つ紋の羽織を着た、白髮の總髮で、鼻のたかい眼のきれいな、痩せた男である。刀をさしてゐるかどうか上半身だけだからわからぬが、どの著書でも同一の寫眞であつた。それに私のやや不滿なのは、この近代活版術の始祖、日本のグウテンベルグとも謂はるべき人についての記述は、どの著書でも二三頁であつて、どの文章でも出典が同じらしく、幾册讀んでも新らしいものを加へることが出來ないことだつた。
本木昌造についてもつと知りたかつた。西郷隆盛や吉田松陰について知れるがごとく知りたい。私は肝腎のところへいつて物足りない氣がした。勿論研究などといふもので、新事實を一つ加へるなどどんなに大事業であるかは察することが出來る。しかし多くの著者は本木の活字完成を印刷歴史の一齣としてゐる傾向があつた。或は初心者の獨斷か知れぬが、本木の完成あつてこそ、日本の過去の印刷
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