術を語ることが出來る、といつた程の大きな峯ではないかと、ひとりで不滿に思ふのだつた。
三
昭和十六年の夏になつて、ある日H君といふ若い人が訪ねてきた。會ふのは始めてだが、私がいつか書いた印刷文獻に關する隨筆が縁になつて、「本邦活版開拓者の苦心」といふ書物を送つてくれ、二三度文通したことがある。H君は關西の人だが、最近上京して下谷方面の印刷工場で植字工をしながら、「本木昌造傳」を小説風に書きたいために、文獻をさがしてゐるといふ人だつた。さつぱりした白麻の詰襟服を着て、この職業特有の猫背で、痩せて、淺ぐろい顏である。
「あなたも昌造傳を書くんですか?」
せつかちと見えて、坐ると詰襟の釦をはづしながら、すぐ云つた。
「いやア、そんなわけでも。」
私はわらひながら答へた。實際私にはまだかくべつな目的はなかつた。第一本木昌造について殆んど知らないのである。
「いえ、本木傳はみな似たり寄つたりで、詳しいものはないやうですよ。だからネ、ぼくはあの時代の他の文獻から、外廓的といふか、そんな風に探してるんですよ、え。」
また詰襟の釦を弄くりながらH君はゴンチヤロフの「日本渡航記」とか「日本艦船史」とか「川路日記」とかをあげた。「日本渡航記」はロシヤ使節プーチヤチンの長崎來航で、いはゆる長崎談判、この文章のうちに通詞として「昌造」といふ名が二度出てくるとか、同じプーチヤチンの下田談判には昌造がもつと活躍してゐるから、日本側の立役者川路聖謨の日記をよめば、彼の事蹟が少しは出てくると思ふが、この文獻はまだ讀む機會を得ないとか、「日本艦船史」は元來製鐵造船の先覺でもあつた本木の時代を歴史的に知るに好都合とか、べつに本木傳を書く氣はなくても、H君の話は興味があつた。
「あなたは三谷幸吉といふ人を知つてゐますか?」
自分の話に一區切つけてからH君が云つた。
「ああ、百科辭典の本木傳に引用されてる人ですネ。」
私はそれだけしか知らなかつたので、さう答へた。するとH君はいくらか不滿げに「ええ」とうなづいて、また云つた。
「本木研究ではこの人が代表的ださうですよ、ぼくもつて[#「つて」に傍点]がなくて會つたことないんですがネ、そら、この本も實際の著者は三谷氏なんださうですよ。」
H君が扇子でおさへたのは、私がいまH君に返さうと思つて、膝の上においてゐた「本邦活版開拓者の苦心」であつた。
「ヘエ、でも署名がちがふぢやないの?」
四六判の小さい書物は津田といふ人の著書になつてゐる。
「さうですよ、津田といふ篤志な人で、いはばパトロンですね、文章を綴つた人も三谷氏ぢやない。三谷氏はこの中にある澤山の開拓者たちの遺蹟を足で探しあるいた人ださうですよ。」
「ホウ!」
と、私は心から云つた。三谷つてどんな人か知らないが、この本を最初讀んだときから大變な仕事だナと感心してゐた。それには本木や本木の協力者平野富二の略傳もいれてあつたが、その他數十人の近代印刷術のために苦鬪した人々の事蹟が、長短いろいろではあるが調べられてあつた。加藤復重郎といふ日本最初の鉛版師、つまり紙型をとつて活字面を鉛の一枚板に再製する工程であるが、紙型は雁皮紙を數枚あはせれば凹凸が鮮明になることや、スペースと活字面の高低にボール紙を千切つて加減をとればいいといふことや、簡單のやうなことでも、それを發見するまでのさまざまの悲喜劇を織りこんだ苦心の徑路は、たとひ印刷業關係者でないものでも身うちの緊きしまる思ひがする。今日の活字の字形を書いた竹口芳五郎といふ人は、平野富二に見出されるまで、銀座街頭で名札を書いてゐたといふ話や、その他最初のルラーの研究者境賢治とか、今日の活字ケースを創つた山元利吉といふ人の苦心談といつたもの、複雜な近代日本の印刷術が完成するまでの、じつに澤山の有名無名の發明者、改良者の苦心が描かれてあつたが、私がこの書物の著者に感服してゐるのは、多くはもはや故人となつてゐる、それらの人々を探しあるいたこと、殊に發明者とか改良者とかいふ人が、多くは産を成したわけではないので、窮乏離散してしまつた遺族をたづねあるいて聽き取つたりする仕事も、並大抵ではなかつたらうといふことであつた。
「どうです、いちど三谷氏を訪ねてみようぢやありませんか。」
H君は熱心であつた。
「住所はわかつてゐます。つて[#「つて」に傍点]はなくてもさきに手紙を出しとけば會つてくれるでせうから、二人で行つてみませんか。」
「いいね、行きませう。」
私もよろこんで答へた。
それから數日經つとH君から手紙がきた。それによると三谷氏は入院中で、何病氣だかわからぬが面會謝絶ゆゑ、いましばらく見合せようといふことだつた。いくらか失望したが、また數日經つと、こんどは速達が來た。三谷氏は胃癌の大手術で經
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