過が惡いさうだ、待つてゐても望みないから、話は出來なくとも見舞だけでもゆかうぢやないか、といふことである。早速應諾の返辭をやると、折返して濟生會病院だから、明日午後一時省線澁谷驛のホームで逢はうと書いてきた。
八月の中旬でひどく暑い日だつた。私たちは澁谷で一緒になつて、五反田驛で降り、それから市電で赤羽橋まで行つた。停留場の近所で、見舞のしるしを買はうと思つて花屋へ入つたとき、私とH君は顏を見合せるのだつた。
「いくつくらゐの人だらう?」
「さア、いづれ年輩でせうネ。」
まつしろな、山百合よりも清楚な感じで、もつと匂ひの淡い花を五六輪買つた。花屋の内儀さんに訊くと、これがさんざし[#「さんざし」に傍点]といふのだつた。
「質問さしてもらへるやうだと有難いがなア、しかし惡いかしら?」
みちみちH君は手帖をめくつてみせながらそんなことをいふ。手帖には以前から準備してゐたものらしく「昌造入獄の眞の原因は何なりや」などといつたことが二三、箇條書になつてゐる。私にも返辭はできなかつた。
受附で訊くと病室はすぐわかつた。待合室の廣間をぬけると最初の廊下を左に折れた。窓はみんな開放しになつてゐて、ベツドが目白押しにならんだ廣い病室から患者たちの苦しい呼吸づかひが聞える。風がない日で、廊下には附添の婆さんなぞの、アツパツパの裾を太股までたくしあげた、けだるい風體でしやがんでゐるのや、バケツをさげて立話してゐるステテコのズボンから毛脛をむきだしたおやぢさんやら、そんな附添人たちの庶民的風體からしてもこの病院の性質がわかる。「三谷幸吉」といふ名札は、廊下の一番はしの入口に他の名札とならんでゐたが、先に立つてゐるH君がどちらのベツドだかわからず入りそびれてゐると、廊下にしやがんでゐた内儀さん風の四十あまりの人が、襷をはづしながら近寄つてきた。
「どちらさんでせうか?」
小柄で、看護やつれをした顏に、洋服を着た人間なぞの訪問に馴れない人のオドオドした表情がある。H君が名刺を出して、前に手紙をあげた者だといふと、「はあ、はあ」と恐縮したやうに、
「三谷の家内でございます。」
とお辭儀した。
私もお辭儀して名刺を出すと、内儀さん風の人は、それをもつて内部へはいつていつたが、ツイ鼻さきの衝立のきはのベツドにあふのいてゐる、もうだいぶ地が透けてみえる白髮の雜つた頭が、當の三谷氏だ、とこちらでも見當がついた。
「こちらへお入んなさいと云へ。」
あふのいたまま二枚の名刺を支へてゐる痩せた手首はふるへてゐるのに、案外大きな聲であつた。
「大丈夫なんですか?」
廊下へ出てきた細君にH君がたづねてゐる。
「ええ、けふはどうしたんですかネ、とても元氣ですの。」
襷を弄くりながら、
「それにもう、どつちにしたつて同じだつて、お醫者さんも――」
と話しかけてゐるのに、ベツドからはかんしやう[#「かんしやう」に傍点]な大聲がつつぬけてくる。
「何をグヅグヅしとる、早く、はいんなさいと云はんか。」
ハイハイ、と細君はそつちへ答へておきながらも、見ず知らずの人間にも頼るやうなオロオロした聲の調子であつた。
「だからもう勝手にさしとくんですよ。ええ、あれで本人だつて、あきらめてはゐるやうですけれど――」
ベツドの傍へ近づくと臭氣が鼻を衝くやうだつた。ひろげた腹部はガーゼで蔽つてあつて、便はみんなその切開口から出るのださうである。三谷氏は痩せて萎びきつてゐるが、大男でベツドから兩足がハミでるくらゐ。さつきから名刺をもつたままの手をふるはせながら、首をこつちへ捻ぢむけて、顏だけでも起さうとする容子だつた。
「バカヤロ、枕をとるんだ。」
口ぎたなく罵りつける言葉まで激しい。そして泳ぐやうに手をふりながら、眼をH君の肩ごしに私の顏へまつすぐにそそいで、
「よくきてくれたなア。」
と云つた。吐き出すやうに言葉の尻はかすれながら、皺んだ眼尻にポタポタと涙がつたはつてゐる。
「ほんとによくきてくれた。」
さつきからの泳ぐやうな手ぶりは握手を求めてゐるのだと氣がついたので、慌てて私は應じたものの、すこしびつくりしてゐた。重態の病人だからはじめての人間にもこんなに昂奮するのかと思つたのである。
しかし三谷氏は握つた手をなかなかはなさないで、しげしげと私の顏を見入るのである。三谷氏はふとい鼻柱と、くせのある幅廣な唇許をもつてゐて、神經質でいつこく[#「いつこく」に傍点]な風貌があつた。
「しばらくだつたなア。」
呼吸をつぎつぎなつかしさうに云ふ。
「君も、年をとつたぢやないか、だいぶ白髮がある――」
ボンヤリな私も不審になつてきたが、この三谷氏と、どこで逢つたことがあるだらう? 困つてそれをたださうとすると、とたんに相手は手を離してしまつた。
「なんだ、君ア知らず
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