「おお正名兄弟! 貴方、前田正名を知つてるでせう、ほら、外國渡航を企てて兄弟ともふん縛られた人ですよ。」
 私はI・K氏が知つてゐようとゐまいと、じつは偶然に正名が「サツマ辭書」の計畫者であつた發見の感激を語りたいのだ。私は以前に正名の傳記を讀んだことがあるが、このことは書いてなかつた。正名は明治初期にフランスへ留學し、普佛戰爭へも義勇兵として參加し、歸朝するや官吏となつて縣知事、農林次官など勤めた人であるが、最も大きな功勞は日本農業を近代化したことにあると謂はれてゐる。薩摩藩士前田善安の四男に生れ、九歳にして洋書を讀んだ秀才であり、十四歳のときその兄と共に外國渡航を企てて露見し、幕吏に捕縛され、兄は切腹したが、正名は若年の故と、兄の命乞があつて死を減ぜられたといふのである。察するに「サツマ辭書」計畫以前のことと思はれ、その兄といふ人は、献吉より上か下かわからぬが「宇内の新知識を究め」たい志は、猶やむことなくして、その頃の長崎にうろついてをり、とほく太平洋を睨んでゐたのであらう。
 私は再び古びた「サツマ辭書」をめくつて、序文を見た。木活字風の字形で「皇國ニ英學ノ行ハルルハ他ニ非ラス所謂彼ノ長ヲ取リ我ノ短ヲ補ハンカ爲ナリ其ノ長ヲ取リ短ヲ補フハ 皇化ヲ萬國ニ輝カサン爲ナリ」とはじまつてゐて「明治二歳己巳正月、日本薩摩學生」と結んである。裏は英文の序文で、終りは同じく(1869, student of satuma)とあつた。ああ何といふ豁達なひびきであらう。スチユデント・オブ・サツマ!
 個人名もいれず・サツマ學生とだけ名乘る人々の胸を反らした面影が泛んでくるやうであつた。上海にあつて御一新のことに遭ひ、藩士として一應の始末に歸國しても、すぐまた海外へ渡つたこの人々の心には既に藩などはなくて、あるものは皇國、世界における日本であつたのだらう。
 私はすこし昂奮しながらI・K氏の家を出た。既に日暮れで癌研究所前から大塚驛の方へ歩きながら、嘉平の活字の行衞は益々紛亂してわからぬままに、少しも失望してはゐなかつた。このうへは手蔓をもとめて島津公の集成館へゆき、その遺品活字に見參することが、殘された唯一の手がかりであらう。
 しかしそれはさうとしておいて、私は考へねばならぬのだ。「江戸の活字」も木村嘉平だけではなかつたか知れない。電胎法による字母も完成されたのだ。しかも、しかも何故に活字は江戸に生れず、長崎に生れたのだらうか※[#疑問符感嘆符、1−8−77]
 嘉平が元祖か、昌造が元祖か、そんなことは大きな問題ではない。江戸で生れず長崎で生れねばならなかつたその社會的事情、ああその事情、それこそ「本木昌造傳」に是非書かれねばならぬ要素の一つだと、私はいつか大塚驛前を通りすぎ、白木屋の前に出てしまつてから氣がついて引返しながら、さう考へてゐたのであつた。
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        長崎と通詞


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      一

「――せめては板刻の業のみも半年にして終らせ玉へかし、小子の生命計り難きが故に、其功を急ぎ候事、胸に火を煽るが如くにて御座候――」
「海國兵談」の著者林子平は、同書の印刷に當つて、東北の片隅から江戸の有志にむかつて、火急の檄を發してゐる。
「――小子は遠鄙に在之候を板刻の諸用を調度仕候故、直に諸君に奉謁し奉告事不能候、因て東都の心友手塚市郎左衞門、柿沼寛二郎、森島二郎、工藤平助、藤田祐甫の五人に托し候て右御入銀の取次を相願候事に御座候、御入銀の御方方右五人の内催寄の者候はば即ち板刻の處に相屆申候――」
 これは今日でいふ「豫約出版」の勸誘状であるが、江戸中期以降、海邊漸く多事ならんとするとき、「海國兵談」の著述をもつて命にもかへがたいとした林子平が、當時の印刷術の迂遠さと、その高價さとを嘆く、身を灼く思ひがその全文にあらはれてゐる。私は文明の今日、印刷業にたづさはつた人間の一人として、次に見る「海國兵談」印刷費用の内譯を、ふかい感動をもつてここに掲げよう。

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一つ、右海國兵談者初卷の水戰の卷より末卷の略書に至つて總て十六卷、紙數三百五十枚也、是を八册に造
一つ、右海國兵談千部を仕立候て世に施し度事小子終身の大願にて御座候事
一つ、右の如く千部を仕立候事其れ不少候、因て書肆を招て千部を仕立候、値の大略を計畫せしめ候、其大數左の如し
一つ、紙一枚の彫賃四匁五分也
 三百五十枚の彫賃一貫五百匁也、金にして二十六兩一分也
一つ、全部八册にて紙八帖づつ用ゆ、千部にて八千帖也、一帖の値八分五厘宛、八千帖にて六貫八百目也、金にして百十三兩一分と銀五匁也
一つ、表紙八千枚、一部八册千部八千册、一枚の値二分五厘づつ、八千枚にて二貫目なり、金にして十兩二分と銀
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