五匁也
一つ、縫糸一部に二丈を用ゆ、千部にて二千丈也、一部の縫糸代六分五厘づつ、千部にて六百五十目也、金にして十兩三分と銀五匁也
一つ、摺賃一部に付四分宛、千分にて四百匁也、金にして六兩二分と銀十匁也
一つ、仕立賃一部に付一分宛、千部にて一貫匁也、金にして十六兩二分と銀十匁也
一つ、外題料全部八册に一分づつ、千部にて百目也、金にして一兩二分と銀十匁也
 〆、銀にして十二貫五百二十匁也
   金にして二百八兩三分也
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右者海國兵談を千部仕立候値の大略の積方也、然るに小子元より無息にして且清貧なる者に御座候得ば、中々自力而已に難叶存奉候、因て今度板刻の證に今日迄に彫終り候水戰五卷數册を仕立て候て、諸君の賢覽に奉入此末造功の費を御助被下候――」
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云々とある。
 口上のうち摺賃とは印刷費であり、仕立賃とは製本費のことである。摺賃千分[#「分」に傍点]は千部[#「部」に傍点]と思ふが、仕立賃より廉い。江戸中期には木版印刷が發達してゐるが、千部の摺賃銀四百匁とすると、當時のばれん刷りもよほどスピードがあつたにちがひない。又外題料といふのは表紙貼込の書名印刷及び紙代のことだらうか?
 しかし何と高價であつたらう。「海國兵談」全八册三百五十枚は、今日の九ポイント活字にすれば四六判で三百頁足らずと思はれる。しかも林子平を苦しめたのは、高價といふだけではなかつた。その何倍もの「せめても板刻の業のみも半年にして終らせ玉へかし、小子の生命計り難きが故に云々」といふ苦痛は、歸するところ木版彫刻、今日でいへば植字製版にあつたのだ。
「――一人にて彫る所紙一枚に大概一日半掛り也、海國兵談總紙數三百五十枚にて御座候得ば、一人にて是を彫候得ば元日より大晦日まで休みなしに彫候て九百日掛り申候、二人にて彫り候得ば四百五十日、四人にて彫候得ば二百二十五日掛り、八人にて彫候得ば一百十三日に彫終り申候――然るに小子無息清貧にて御座候得ば、工人を多く用ひる事不能候――」
 そして林子平はつひに彫師一人しか用ひることが出來なかつたし、「海國兵談」の板刻は一千六十日を費したのである。
 私は思ふ。これは近代活字發生前の貴重な文獻である。そしてこれはひとしく當時の學者たちの苦衷であつたらうし、子平の場合、この克明な口上書の裏には、印刷術の迂遠さに對する不滿が明らかに流れてゐる氣がする。
 周知のやうに「海國兵談」の出版は寛政三年だ。日本で始めて本木昌造が外國から鉛活字を購入して近代活字の研究にかかつたのが嘉永元年で、川本幸民が活字字母製法の「電胎法」を講述實驗したのは嘉永五年(同二年とも謂ふ)の事だから、その間五十餘年を距ててゐる。當時の學者たちが印刷術の迂遠さに對する漠然たる不滿はあつても、意識したものにならなかつたのは當然だらう。しかし林子平が、海國兵談豫約出版の檄文に、克明な印刷費内譯を書いた氣持には、もつと何かがある氣がする。たとへば周知のやうに彼はしばしば長崎を訪れてゐる。出島の蘭館にも出入して彼自身の筆になる、彼が蘭館甲比丹たちから饗應を受けた繪があるくらゐだ。彼はそこで種々の洋書を見、當時既に蘭人にとつては日常的であつた鉛活字や印刷機も見聞したにちがひないだらうからである。これは私の不當な飛躍だらうか?
 或は牽強附會とされるか知れない。しかし私の僅かな知識でも、近代活字に關心をもつたのは、主として洋學者たちだつたといふことが出來る。前記の川本幸民が然り。「活字の料劑」を書いた杉田成卿が然り。彫刻ながら鉛ボデイの活字を開成所版に用ひて印刷術の歴史に劃期的影響を與へた大鳥圭介もまたさうである。さらに島津齊彬の命をうけて木村嘉平が作つた活字の最初のが歐文であつたと謂はれ、その他私には作者未詳の「八王子の活字」や、江戸で作られた「オランダ單語篇」がまたさうだつたといふことなど、考へあはせると、洋學と近代活字とは切つても切れぬ關係があらう。
 本木昌造は和蘭通詞で、また洋學者だつた。彼が活字なり印刷術なりに關心をもちはじめたのは、前記洋學者たちのそれと軌を一にするものだらう。そこでまた私の考へは飛躍するのであるが、では長崎よりも江戸においてはより澤山の活字の研究者があり、學者があつたのに、何故それが江戸でなくて、長崎でより早く完成しただらうか? 歴史に從へば、活字はつひに長崎に誕生して大阪から江戸へと東漸していつてゐるのである。
 その理由を簡單にいへば、二つあると思ふ。その一つは當時の長崎は、唯一の海外文化の入口であつたこと。從つて明治二年米人技師ガンブルが上海から歸國の途次、長崎に寄港したとき、偶々電胎法による活字字母の製法を、本木昌造に傳授するチヤンスがあつたといふこと。つまり「地の利」といふのが、その一つである。
 
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