當時歐品としいへばすべて幕府の禁止するところ――嘉平は自家の一部に密室をつくり晝夜燈火を具へて」とある。「櫻材をもつて模型をつくり數多の鑢《やすり》と鏨《たがね》をあつらへ、銅又は眞鍮を用ひて、長方形大小各種の種字を作りだし」云々。嘉平の寫眞は世につたはつてゐないらしいが、一代の名工が、十一年の年月、世を憚る密室のうちで、心血を濺いで稀代の活字字母をつくりださうと苦心するさまを想像すると、百年を距てて特に活字に縁のある私には眼頭の熱くなる思ひがある。「又別に銅にて作れる鋼鐵を用ひて三個の長方形なる金物を組み合せて、字母を嵌めこみたる穴に、圓形なる器にて鉛を注ぎこみ、穴を縱の上部より底通迄に鐫りぬきて、尚空氣穴をうがてる鑄造機を造りて云々」ちよつと素人には理解しにくいか知れぬが、これはつまり「手鑄込み器」の説明である。同じ嘉永の四年には、本木昌造も既にこれをつくり出してゐるが、長崎と江戸と距てては相知るところがなかつたであらう。そしてもつとはるかなる感慨は、これよりも十五六年以前、西洋暦にして千八百三十四年アメリカのデヴイツド・ブルースが、所謂「ブルース式カスチング」を發明して、世界の印刷術界に革新をもたらしてゐることである。私たちは幼時この※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]轉式の「ブルース式」によつて育つたが、いま嘉平や昌造の苦心を傳へ讀んで、「ブルース式」から「手鑄込み器」の歴史まで遡ることができるのだ。
そして嘉平の困苦はまだつづく。十年めに一應出來あがつた活字製法は、木や銅に手で彫つた種字が、實用に堪へぬうちに破損してしまつた。「しかし以上の方法でも種字は破損しやすく、徒らに年月を費し、嘉平は齊彬公樣の御意に報い得なかつた。――偶々島津侯の邸内に月々理化學の講義があるのを聞知し――一日偶々同邸において和蘭人に出會し、電氣學の一部を研究することを得、是より蝋石面に種字を凸形に彫刻し、高度に溶解せる液體の中に浸漬し――」云々と。これは川本幸民の「遠西奇器述」で説くところの電胎法である。
斯くして、嘉平の活字字母は出來上つたのだといふ。そこで私は考へるのだが、島津ほどの大藩であつたから、或はオランダ人もその江戸邸に出入することも出來たか知れぬ。齊彬から二代か以前の島津重豪などは、新知識を學ぶために蘭人を厚遇したといふし、オランダのカピタン・ヅーフなどは江戸參府の歸途、島津江戸邸の門前を通過するときは駕を降りて、日本流に敬禮したと、彼自身の「日本囘想録」に見えてゐるくらゐだから、或は信用していいか知れぬ。しかしそれよりもつよく、當然私らの考へにはいつてくるものは、「島津侯に祿仕せしめられ」た川本幸民であり、幸民と嘉平とのつながりであらう。殊に「月々理化學の講義云々」を思へば、直接ではなかつたにしても、この學者と名工が科學の絆によつて、何らかの形でむすばれたらうと想像することは無理であらうか。
ところで私は「嘉平の活字」の行衞を追つかけなくてはならない。手がかりは二つあつて、一つは前記の「昔時本邦創成の和歐活字製作略傳」中の末尾に見える、嘉平の活字がサツマ辭書の印刷に用ひられたといふのであり、いま一つはK・H氏が私に見せた大福帳型のオランダ單語篇と、同じくK・H氏が「八王子の活字」と稱ぶところの、やはり蘭書「濟生三方附醫戒」である。單語篇のイタリツク風の活字は既に見た。「濟生三方附醫戒」はK・H氏もまだ見てないらしいが、同氏が「八王子の活字」と名づけてゐるところの所以たる、ある文獻を貸してくれた。それは第千百五十號の中外醫事新報と、同第千二百八十六號別刷の薄つぺらな古雜誌である。そのどつちにも陸軍軍醫中將秋山練造といふ人が書いてゐるが、別刷の方には「安政五年父の飜刻せる蘭書「濟生三方附醫戒」について」と題してある。
練造氏の文によれば秋山氏は代々八王子に住んで、「濟生三方附醫戒」を出版した先代方齋は「幼名佐藏と云ひ、祖父の死後家と名を襲ぎて、義方と稱し、醫にして士であつ」た。安政五年の出版で、蘭書フーフエランドの寫本を原稿として鉛活字で印刷したといふ意味が述べてあり、練造氏の幼時の記憶によれば「又活字も診察室の戸棚に澤山あつたものでした。それが皆我家全燒の時失はれて――活字の鑄型が二個殘つて記念となつてゐるのみです」。また別のところでは「印刷に用ひた活字は少くとも五種を見ることが出來る。即ち大文字大中二種と、同じ大文字ながら少しく右に傾むいたもの、並びに小文字及イタリア風小文字である」。
寫眞でみる同書の製本は粗末で不細工ではあるが、ハイカラな英語のリイダアでもみるやうな洋裝であつた。鑄型が殘つてゐるといひ、「之を緒方博士所藏の蘭本原文と比するに文章は勿論同じだが、第一には、活字の大きさが違ふ爲各行が必ずしも同じ
前へ
次へ
全78ページ中15ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
徳永 直 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング