こにも見えず、空はひくかつた。何か壓迫されるやうな空氣がみんなを押しだまらせてゐる。身動きするたびに邪慳にこづきかへす肘があつて、私のあご[#「あご」に傍点]の下には背のちひさい婆さんの髷あたまがつつかへてゐた。すると少しうしろの方で、しやがれたのぶとい聲がきこえた。「はるさめぢや、ぬれてゆかう――」やくしやの聲色である。すると誰かがクスツとわらつた。私もわらつた。つづいてあつちこつちで、おしかぶさる空氣をハネとばすやうに、笑ひが傳染していつた。――
 私は闇をつらぬくあたたかいものを身内に感じてゐた。牛込北町の通りも眞つくらであつた。見おぼえの新潮社の建物が仄じろく浮いてゐたので、やうやくK・H氏の邸が見當ついたくらゐだつた。
「濡れたでせう、よく出てきましたネ。」
 K・H氏は親切に應接間を明るくして待つてゐてくれた。そして例の「印刷大觀」を出してくれながら云つた。
「私もまだサツマ辭書の初版といふのは見てゐないので、斷定は出來ませんがネ。」
 私はそれを讀みながら、K・H氏は木村嘉平のつくつた活字でサツマ辭書が印刷されたのだといふ、その文章のうちのある事實のことを云つてゐるのだと理解した。
「しかし、この本の活字はたしかにそれだと、私は思つてゐるんだが――」
 また奧の室から一册の本を抱へてきて、私の膝にのせながら、K・H氏は云つた。
「オランダ文法の單語篇ですがネ、江戸で印刷されたものだといふことは明らかのやうですよ。」
 古びた青表紙の大福帳のやうな本である。分厚く細ながく、袋綴の和紙に、こまかいイタリツク風の歐文活字で印刷してあつたが、一見鉛活字だといふことは明らかだ。
「ネ、この字づらの不揃ひな點など、輸入活字とちがふと思ひませんか。」
 私も同感であつた。K・H氏の説明によると、この「和蘭文法書」は、當時の江戸書生の間にひろく讀まれたものださうで、これより少しさき、安政三年から四年へかけて、長崎奉行所でも和蘭文法書の「成句篇」「單語篇」が刊行されたが、それは輸入活字であつて、字形がちがふといふのであつた。
 私はもすこし木村の活字の行衞を知らうと思つた。K・H氏は私の考へに贊成してくれて、二三の參考書を貸してくれながら、
「I・K氏を知つてますか?」
 と訊いた。私は少しまへに長崎通詞のことで、友人の紹介で一度I・K氏を訪ねたことがあつた。江戸期における洋學傳統の研究家で、特に英語の歴史については權威ある人だと謂はれてゐた。
「さうだ、I・K氏に教へてもらつたら、サツマ辭書の活字がわかりますネ。」
 私は答へながら勇みたつてゐた。

      三

 木村嘉平は、本木昌造より一年早く、文政六年の生れ、江戸神田小柳町に住んだ。代々彫刻師で、十八歳にして業を繼ぎ、特に筆意彫りをもつて謳はれてゐたといふ。宮内省にも出入し、當時諸大名の藩札の原版は多く嘉平の彫刀に成つたと謂はれる。
「印刷大觀」の「昔時本邦創成の和歐活字製作略傳」には次のやうに書いてある。「右活字は安政年間、薩摩守齊彬公樣より江戸神田小柳町において代々彫刻を業とせる木村嘉平に命じ、嘉永元年より元治元年に至つて完成せる遺品にして、その作品中には鋼鐵製の一端の面に文字大は四厘より一分五厘まで、數種類の深く凸形に彫刻せる數百の文字、數百の銅製凹字母、金屬製三個より成る鑄造機、各活字字形、數千の木製模型、彫刻用の鑛|鑿《のみ》及び電氣銅版に使用する鑛銅用の器具、蝋石面に彫刻せる和文數千の種字印刷機兼植字機、その他參考せる蘭書等、いづれも當時使用せるものにて今日尚保存するところなり」
 この文章は若干不親切で、繁多な器具遺品の模樣が、植字工であつた私にもちよつと理解しにくい。同文章はつづけていふ。「嘉平は二十五歳にして薩摩守樣の召すところとなり、當時齊彬公樣は歐文書類を版本としてあまねく御藩中に學ばしめんとの御尊慮によつてひそかに嘉平に御洩談あらせらる――」。
 島津齊彬がひそかに輸入した蘭書を藩士一統に讀ませて、夷狄の新知識をわがものとせんとした英斷はよくわかるが、飜譯のできる學者も澤山あつた當時に於て、蘭書をそのままの蘭文で、しかも歐文活字を創成させてまで刊行しようとした意圖は、どういふのであつたらうか? あはせて藩士の語學力を強化せんとしたのだらうか? それとも幕末當時の、蒸汽船を作るにも、大砲を作るにも、雄藩同志が鎬をけづる競爭のいきほひであつたから、祕密を守るために歐文としたのだらうか? しかし私は考へる。いやいやさうではあるまい。尠くともそれだけではあるまい。何よりも大きな理由は、歐文ならばアルハベツト二十六文字の字母創成で、萬事が足りるといふこと。島津齊彬も木村嘉平も、まづは捷徑を選んだのではなからうか※[#疑問符感嘆符、1−8−77]
「しかし
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