、幸民が「遠西奇器述」にいふ「電氣模像機」は、圭齋の實驗にみる原理に發したものであり、「木版ハ數々刷摩スレバ尖鋭ナル處自滅シ終ニ用フベカラザルニ至ル、コレヲ再鏤スルノ勞ヲ省クニ亦コレヲ用フ――其欲スル所ニ從ヒ其數ヲ増スヲ得、其版圖ノ鋭利ナル全ク原版ト異ナラ」ざるものであり、一八四〇年以後ロシヤ人ヤコビ教授以下の人々によつて完成されたそれが、十數年後の日本ではもはやこれらの先覺者によつて緒についてゐたのだといへよう。たとへば「遠西奇器述」にいふ「電氣模像機」の實試法は詳細をきはめ、效用の範圍について木版などいふ日本獨自のものに適用してゐるところ、決して單なる蘭書の飜譯ではない。
フアン・デルベルグについて私は未だ知らないが、吉雄圭齋は長崎人、吉雄流外科醫で幸載の子、幸載の伯父が吉雄流の祖となつた吉雄耕牛である。吉雄家は代々長崎通詞であり「日本醫學史」によれば耕牛は吉雄流外科の道を拓いたほか日本の診察術に小便の檢査を加へた最初の人と謂はれ、前野蘭化、杉田玄白も耕牛に師事し「解體新書」の成功も與かつてこの人にあると謂はれるが、圭齋はいはばその三世であつて、日本で最も早い嘉永二年に、自分の三兒に種痘を試みた人だと「日本科學史年表」には書いてある。
阮甫の文中「後に三寶寺に來り」といふその寺は、「長崎談判」のため筒井、川路に隨從してきた彼の宿舍であつて、日記の日付は正月十三日、つまりプーチヤチンらの軍艦が退帆したあと「川路君」左衞門尉らと共に出島蘭館を巡見したときの一節である。同じ日付で同じ電氣分解か他の實驗かはわからぬが、「これはエレキテルとジシヤクを合したる法也」と川路は日記に書いた。そして「故にその先を握るに手をひひきく、その手をつかみをれは十人も廿人もみなひひく也、九十九一人持居たるに強く仕かけられアツといつて倒れたり」といふ川路の興味に比べると、阮甫の文章がいかにハイカラで科學的であるかがわからう。
阮甫は醫學者であり博物學者であり兵學者であり科學者であつた。醫書、歴史書、地理書、地質書、鑛物書、應用工藝書、兵書、その他紀行文書、詩書など合して册數百六十に及ぶ著者であつたが、同じ十五日に川路らと共に、當時日本では數少い鐵製錬所をもつてゐる佐賀藩が自慢にしてゐた洋式新臺場をみて「鎖國の弊は到らざる所なし」と叱※[#「口+它」、第3水準1−14−88]してゐる。「――神崎の新臺場は鍋島侯の新に造れるにて百五十 tt[#「tt」は縦中横] 二門、二十四 tt[#「tt」は縦中横] 幾門、其餘大小砲を備へける頗る多し、斐三郎(武田)曰く、砲制洋砲と合せざる者多く、轅馬海岸砲車も皆鹵莽、砲※[#「土へん+敦」、第3水準1−15−63]の制卑下にして胸壁も完からずと、これより先人々嘖々と新臺場の洋砲を用ひけるには西洋人も驚きたるよしなど申せしに、かかる粗漏なる者ならんとは思はざりしなり、火藥庫も淺露にして危うく、砲は岸頭に露はれ、ボムフレイも設けず、かかる塞堡にて自ら誇るは遼東の豚とやいはん、鎖國の弊は到らざる所なしと一口氣覺え大息す――」
その黎明期において、日本の近代醫術は日本の近代科學の大宗と謂はれる。醫術はもつとも政治性にも克ちやすく、その醫術はまた文字の媒介によつて他の科學をも導きやすいといふのが理由の一つであらう。阮甫が既にさうであつたやうに吉雄流の外科醫圭齋が「電氣分解」の實驗をしたところで不思議ではなかつたのである。圭齋はのち長與專齋らと共に明治の醫學界を開拓した人。その圭齋と昌造との關係を「印刷文明史」はつたへて「本木氏とは竹馬の友にして、常に氏の相談役兼囑託醫として大いに――云々」と書いてゐるが、昌造は文政七年生れ、圭齋は文化十年生れで、圭齋が十年の年嵩だから「竹馬の友」は少しをかしいだらう。
そしてさらに圭齋より二三年を距てて、福澤諭吉らも「フアラデーの法則」以後の新らしい電氣學をまなんでゐることが、「福翁自傳」のうちで語られてゐる。「――或歳、安政三年か四年と思ふ。先生は例の如く中ノ嶋の屋敷に行き、歸宅早々私を呼ぶから、何事かと思て行て見ると、先生が一册の原書を出して見せて『今日筑前屋敷へ行たら、斯う云ふ原書が黒田侯の手に這入たと云て見せて呉れられたから、一寸借りて來たと云ふ。之を見ればワンダーベルトと云ふ原書で、最新の英書を和蘭語に飜譯した物理書で、書中は誠に新らしい事ばかり、就中エレキトルの事が如何にも詳に書いてあるやうに見える。私などが大阪で電氣の事を知たといふのは、只纔に和蘭の學校讀本の中にチラホラ論じてあるより以上は知らなかつた。所が此新舶來の物理書は英國の大家フハラデーの電氣説を土臺にして、電池の構造法などがちやんと出來て居るから、新奇とも何とも唯驚くばかりで、一見直ちに魂を奪はれた」。(九〇
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