―九一頁)
「先生」とは緒方洪庵のことであり、洪庵は筑前侯のお出入醫師であつた。「ワンダーベルト」とは和蘭語であらうが、友人に訊くとドイツ語で「ウンダ・ヴヱルト」といふのがあつて、たぶん「不思議國」ないしは「驚異の世界」といふ程の意味ではなからうかといふことである。その原書も私は見たことがないけれど、諭吉の語るところに見れば、十九世紀初期から中期へかけて、當時ヨーロツパの躍進する科學、天文とか博物とか醫術とか、いろいろあつめた書物ではなかつたらうか?
「――私は先生に向て『是れは誠に珍らしい原書で御在ますが、何時まで此處に拜借して居ることが出來ませうか』と云ふと『左樣さ。何れ黒田侯が二晩とやら大阪に泊ると云ふ。御出立になるまで彼處に入用もあるまい』『左樣で御在ますか、一寸塾の者にも見せたう御在ます』と云て、塾へ持て來て『如何だ、此原書は』と云たら塾中の書生は雲霞の如く集つて一册の本を見て居るから、私は二三の先輩と相談して何でも此本を寫し取らうと云ふことに決心して『此原書を唯見たつて何にも役に立たぬ。見ることは止めにして、サア寫すのだ。併し千頁もある大部の書を皆寫すことは迚も出來られないから、末段のエレキトルの處丈け寫さう。一同筆紙墨の用意して惣掛りだ』――」(前掲九一―九二頁)さて、「惣掛り」といつたところで、筑前侯の大切な書物をこはすことは出來ないから、一人が讀み、一人が書く。讀み手が少しでも疲勞すれば次が代り、書き手の筆が微塵でも鈍れば控への者がすぐ交代する。疲れた者から眠り、眼をさました者から交代して、晝夜の差別がない二日間の模樣は「福翁自傳」のうちでも最も感激的なくだりであるが、「――先生の話に、黒田侯は此一册を八十兩で買取られたと聞て、貧書生等は唯驚くのみ。固より自分で買ふと云ふ野心も起りはしない。愈よ今夕、侯の御出立と定まり、私共は其原書を撫くり※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]し、誠に親に暇乞をするやうに別を惜んで還した――」と云ふ。八十兩といふ値段はたぶん和蘭船が日本人に賣渡した最初の値段ではあるまいが、そのへんにも「貧書生」らの苦しみがあつたわけで、しかしその「貧書生」らこそ「――それから後は塾中にエレキトルの説が面目を新にして、當時の日本國中最上の點に達して居た――」と申して憚らなかつたのであらう。
考へてみれば、活字板摺立係の昌造が「流し込み活字」と苦鬪しつつあつた時代に、同じ長崎でも、大阪でも、江戸でもその科學的飛躍の母體が徐々に生誕しつつあつたのである。今日からみれば圭齋の實驗から「電胎法による字母製造」はいま一歩であつた。しかしまたときによつては人間の思考も何と迂遠であらうか。幸民の「電氣模像機」は「木版ハ數々刷摩スレバ――云々」とは云つても「木活字」とは云はなかつたのである。昌造もまた同じ長崎に住んで、とにかく友人ではあつただらう圭齋のその實驗をまるで知らなかつたとも思へないが、グウテンベルグ流の「手鑄込み器」だけに奪はれてゐる思考が、電氣分解によつて銅粉を密着させ、父型から母型に交互にうつしとるといふ字母製法までに到るのは無理であつたらうか。實驗者の圭齋自身も亦そんなところに頭がむいてゐたとも考へられない。幕末期の科學者たちはそれぞれに苦心しつつあつた。そしてあまりに科學の分野は廣かつた。しかも「よせくる波」と共に急激に不規則に海邊に打ちあげてくる科學の數々、そこにはまだ統一がなかつたし、基本がなかつたのである。人々は各がままに闇と光の交錯する日本の近代科學の黎明期をひたすらに突きすすむよりなかつたのであらう。
四
ヒヨイと摘んでステツキへ
ケースの前の植字工
その眼が速いかその手はすぐに
すばやく活字を摘みあげ
一語又一語と形づくる
おそいが併し堅實に
おそいが併し確實に
一言一言とつみ重ね
そして尚つづけられる
火の言葉は灼熱と化し
無音の不思議な言葉は
全世界をへめぐつて
怖るべき戰慄を起さしめ
抑壓された足|械《かせ》をこぼつ
言葉は正しき鬪ひにおいて
我に三倍する劍の力をうち破る
人は活字を鉛の集合物と見做し
これを指先にて弄ばんも
印刷者は微笑をもて一字又一字
恰も正確な時計の如くに拾ひあげ
鼻唄まじりに文字を組み
己が仕事に熱中してゐる
俺のやうにこんな簡單な器具で
世の中を支配してゐる者は他にあらうか?
ちやちな印刷機と鐵のステツキ
それにホンの少しばかりの鉛の花型
白い紙に黒いインキ
ただそれだけだ
正義を支持し不正をこぼつ
この印刷者の力に刄向ふ者は誰か?
この詩、「活字の歌」の原文を私は知らない。あまりすぐれた飜譯ではないやうだが、「世界印刷年表」に收録されてゐるもので、世界最初の印刷雜
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