魁けたものだといはれる。ごく大衆的な單語の和譯であるが、通詞中では祖父庄左衞門以來英語の家柄を語るといへばいへるだらう。
しかし殘る二著「和蘭文典文章篇」と「物理の本」については、「蘭書飜刻の長崎活字版」は詳細な記述をかかげて三谷説を反駁してゐる。三谷氏のいふ「和蘭文典文章篇」印刷文明史のいふ「文法書シンタクシス」はその發行年月が同じ安政三年六月であることからしても川田久長氏が前題の文中にいふ「文法書セイタンキシス」と同一であることが肯けるし、寫眞でみる同書が川田説「西紀一八四六年(我國の弘化三年)に和蘭のライデンに於て出版されたもの」の飜刻であることは明らかであり、「物理の本」がやはり寫眞でみると原名「フオルクス・ナチユールクンデ」で、和譯して「理學訓蒙」と稱ばれたもので、昌造の著述ではないといふ川田説の妥當なことが明らかである。つまり三谷氏「詳傳」が昌造に同題の稿本があつたといふならば別であるが、活字板摺立所發行の限りでは昌造が印刷に携つた書物を著書と混同した形跡は否めないのであらう。
ところで昌造が日本活字創造のこの第二期で、「流し込み活字」に努力したことは、たとへば今日帝室博物館に所藏される昌造作の鋼鐵製日本文字字母が、安政年間の作だといふ由緒によつても理解できよう。更にいま一つはこの摺立係時代に活版技師インデル・モウルと共に洋活字の流し込みもやつたと思はれるふしがある。前記「蘭書飜刻の長崎活字版」の文中掲げる寫眞、「セイタンキシス」及び同じく九月に發行された「スプラークキユンスト」の表紙及び扉、同じく川田氏所藏の「理學訓蒙」扉の寫眞をみると、和蘭活字に雜つて明らかに日本製と思はれる洋活字が澤山あることだ。「理學訓蒙」扉の一部に「TE NACASAKI IN HET 5de IAAR VAN ANSEI(1858)」とあつて、このうちの洋數字の不揃ひな活字は明らかに和製であり、そのほかNが時計數字の※[#ローマ数字4、1−13−24]の如くになつてゐる點や、印刷の素人であつても一見明らかである。それは川田氏所藏の大福帳型「和蘭單語篇」の洋活字、嘉平のそれではないかとみられる「江戸の活字」とも明らかに字型がちがふ。從つてその活字板摺立所製と判斷される洋活字がインデル・モウルの指導があつたとしても、「流し込み活字」の經驗者昌造と無關係ではなかつただらう。
安政三年六月の「セイタンキシス」が、同九月の「スプラークキユンスト」になると和製洋活字の混合度合が増加し、五年の「理學訓蒙」となるといま一段めだつてゐる。いふまでもなく原版刷りの活字は激しく磨滅して使用に堪へなくなり、しかも補給は萬里の海外に求めねばならないからであつた。昌造らの苦心は想像することが出來るが、しかしまた手工業的な「流し込み」といつても、相應の歴史と傳統が必要であらう。昌造ら輸入の洋活字は既に四世紀の歴史をもつてゐて、緻密精巧になり小型となつてゐる。十二ポイントそこらのパイカを最大とするくらゐだから、和製の洋活字も補給のためには、それに傚はねばならなかつたことを「流し込み」の初期グウテンベルグらの活字が非常に大きなものだつたことと照しあはせて困難だつたと思ふのであるが、また昌造の意圖が、今日殘る安政年間の鋼鐵製遺作字母が、日本文字のしかも漢字であつたことを思へば、洋文字活字をもつて本意としてゐなかつたことも理解できるであらう。
昌造この時期の心中を、私らはわづかの記録や遺作によつて想像するよりないが、「和英對譯商用便覽」が一枚板の木彫で、わづかに和製洋文字のノンブルを附けたに過ぎないものであつたのをみれば、ときには大きな絶望に襲はれることもあつたかと思ふ。未曾有の變動期「安政の開港」をめぐる幕府の印刷工場も、わづか「プレス印刷」の歴史を殘しただけで、七年の歴史を閉ぢねばならなかつたと同じく、昌造の日本文字の「流し込み活字」は、それが印刷物となつてのこるほどの發展はつひに見ることが出來なかつたのであつた。
繰り返すやうだが、活字の歴史にとつては、その民族の文字がもつ宿命は何と大きいであらうか。江戸の嘉平の洋活字、長崎の活字板摺立所の洋活字は、まがりなりにも比較的容易に印刷に堪へるものが出來た。しかも日本文字の流し込み活字は、至つて幼稚なものといはれる昌造の「蘭話通辯」をのぞけば、江戸の嘉平、長崎の昌造の苦鬪にも拘らず、今日何一つのこるほどのものがなかつたのである。考へてみればアルハベツトの民族は、前述したやうに木版や木活字の歴史をわづか半世紀足らずしか持たないで、流し込み活字の歴史を十五世紀から十九世紀へかけて四百年も持つた。それと反對にわが日本では「陀羅尼經」の天平時代から徳川の末期まで千年の間、木版と木活字の歴史をもつたかはりに流し込み活字の時代
前へ
次へ
全78ページ中70ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
徳永 直 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング