た。「活字板摺立係」を任命されたのは、想像するところ海軍傳習所傳習係通譯よりものち、二年の後半であらう。「揚屋入り」よりもさきかあとかはわからぬが、傳習係通譯以前の上半期は前述したやうに大凡わかつてゐるからである。また「揚屋入り」とか、「謹愼」とかの具體的性質が不明なので判斷しにくいが、これも私の想像するところでは、水野筑後の取調をうけたのち、名目はとにかく、實際的には政治的場面の通譯などから退き、門外不出ではないまでも、自宅に閉ぢ籠つてゐたほどのことではなからうか? そして摺立係任命がよしんば「揚屋入り」の以前であつたとしても、比較的純技術的なその役柄だけは微妙な形で繼續できたのではないか? 彼の問はれた罪のほんとの内容が前述のごとくであつたとすればより一層考へ得られることである。
「活字板摺立係」といふ名稱がその以前にも幕府にはあつたかどうか私は知らない。元來幕府自體としての出版物は「官版」と稱せられて、家綱、綱吉、吉宗、家慶などの歴代將軍のうち好學の人々が開板事業のその都度、職人をあつめて印刷所をつくつたやうである。家康時代には銅活字による印刷物を多く刊行したが、當時もそんな名前はもちろんなかつたし、書物は貴重にされてもそれをつくる仕事はひどくおとしめられたものであつた。記録によると、慶長二十年江戸金地院の開山崇傳の「大藏一覽集」を銅活字で印刷したとき、主として僧侶がこれに當つてゐることがわかる。「――大藏一覽の板行仰出候に付、物書衆六七人入申由に候、貴寺臨濟寺へ可申旨御諚に候、臨濟寺には折節無人にて漸一人從被遣由に候、貴寺衆僧五六人可被成御越候則從今日奉待候――三月廿二日、金地院、拜呈清見寺侍衆閣下」といふのであるが、「物書衆」といふのは原稿の手寫のほかに銅活字の種字を書くことをも意味してゐる。「校合」今日の「校正係」といふのが頭立つたもので、これも僧侶が當つてゐた。そして左の記録によれば印刷の仕事にたづさはる人々を漠然と「はんぎの衆」と稱んだらしい。「大藏一覽集」は銅活字で刊行されたが從來の名稱のままさう稱んだのであらう。「請取申御扶持方之筆、一合壹石八斗者、右是者大藏一覽はんぎの衆、上下十八人、三月廿一日より同晦日までの御扶持方也、但毎日一斗八升づつ、以上」として、その扶持をうける内譯人の名前が「校合、壽閑」を筆頭に「字ほり、半右衞門」とか、「うへて、二兵衞」とか、「すりて、清兵衞」とか九人の名があり、「慶長廿卯三月廿六日」といふ日付が誌してある。つまり「はんぎの衆」の日當は一日米二升であつて、「すりて」は印刷工、「うへて」は植字工、文撰工その他一切の製版工に當り、「字ほり」は今日の活字鑄造工程一切の仕事に當るわけだが、これらの記録を通覽しても、「印刷」といふのが常住的に幕府の役柄としては存在しなかつたことがわかる。民間では出版物が非常に旺盛になつた江戸中期になつても、出版物檢閲の役柄についてはいろいろ記録があるが、幕府自身の常住的な印刷所についての記録はまだ知らない。
川田久長氏の「蘭書飜刻の長崎活字版」(昭和十七年九月號學鐙所載)によれば、このときの「活字板摺立所」の總裁に赤沼庄藏、取締に保田愼作、今井泉三郎が任ぜられ「本木昌造の如きも活字板摺立御用係の命を受けた一人であつた」とある。總裁初め新たに任命されたといふ事實にみても從來にはなかつたことで、それが洋式印刷であるといふ點からも日本の印刷歴史上劃期的なことであつた。たぶんは幕府直參なり長崎奉行所配下の士分であつたらうと思はれる赤沼、保田、今井について私は知るところがないが、昌造の卑い位置であつたらうことは當然で、しかもそのことで昌造の日本印刷史に占める位置については微塵の影響もあらう筈がない。ましてや記録の示すが如く「活字板摺立所」設立の具體的動機の一つが昌造ら購入活字にあつたことを思ひ、昌造が「蘭話通辯」の出版者、最初の「流し込み活字」創造者であることを思へば、印刷史的には赤沼の總裁より昌造の摺立係にこそ必然的な重要性があらう。
三谷氏の「詳傳」が入牢否定の證にあげたやうに、昌造はこの摺立係時代に三つの著述をしたとある。安政三年に「和蘭文典文章篇」、同三年に「和英對譯商用便覽」、同五年に「物理の本」である。尚同四年には和蘭で出版された「日本文典」のために昌造は活字の種書となるべき日本文字をおくつたといふ。「日本文典」は長崎に一册現存するさうで、私はまだ見たことがないから、いづれ後半で昌造の書いた日本文字種字が何であつたかは述べる機會を得たいと思ふが、目下のところは假名か片假名かではないかと想像してゐる。また前記三著のうち「和英對譯商用便覽」も一册現存して、安政元年にイギリス船へも開港した長崎の商取引のため、若しくは蘭語から英語にうつりつつあつた時代に
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