考へにくい。しかも「揚屋入り」の形式の如何はとにかく、安政二年から同五年末に至る長期のある種の處罰は、「蘭書取次」といふ原因に相違はないとしてももつと深い事情がありさうである。
「――通詞の職にある氏は洋書の購入に便利があつた。殊に元來が大に西洋文物の輸入に努めて居た氏の事故、天文書を購入する序をもつて、内々開化思想の普及に力を盡したのであつた。」と「印刷文明史」は書いてゐる。また三谷氏の「詳傳」も、「本木翁が入牢説云々は「蘭話通辯」を印刷出版したることと、蘭書に因りて「和英對譯辭書」を著述せんとする企あることを密告せるものあること、翁が開國論者たることの世に聞えたる等に起因せりといふ」と書いてゐる。このへんは入牢肯定派、否定派どちらも「蘭書取次原因説」に共通したやうに、その原因の背景となる蘭學者としての昌造の性質や在り方を觀る點でも共通してゐるが、「詳傳」はさらに昌造の在り方を強調して「――先生は佐幕黨にはあらざるも、痛烈な開國論者であつたために一時は鎖國論者の非常な的となられ――當時長崎に本木昌造先生を刺さんと、夫等の志士が頻りに出入したために、身の危險を慮りて京洛に上り、一時某公卿に身を寄せて居られたこともある」と書いてゐる。それが何時頃のことか、某公卿とは何人であるかわからぬし、たぶんに長崎での云ひ傳へをそのまま記録したやうなふしもあるが、全體として昌造が「蘭書取次」で罪を問はれたほんとの内容がおぼろ氣ながら理解できるやうである。
「印刷文明史」のいふ「揚屋入り」は恐らく間違ひではないまでも誇張に過ぎたものと私も考へる。そして古賀十二郎氏の談のやうに「水野筑後の取調を受けたことは事實で」あつて、同時にそれは「揚屋入り」ではなくても重大な、意味深長なものだつたらうと考へる。長期に亙る一種の謹愼閉門であつて、その状態は萬延元年飽ノ浦製鐵所御用係に登用されるまでつづいた。「當時紀州侯の御用達を勤めて居た青木休七郎氏がこの事情を知り、安政五年八月十五日の夜、私かに新任の奉行岡部駿河守の役宅を訪れ、現下有用の逸材である本木昌造氏を、何時までも揚屋に留め置くは國家の一大損失である所以を説いて保釋を願ひ出た。すると駿河守もその理に服したと見えて、十一月二十一日の夜、用人小林某を休七郎氏宅へ遣はし、愈々本月二十八日昌造氏を保釋する旨を傳へしめた、斯くて氏は長き牢屋生活から保釋の身となつた」(印刷文明史)といふやうな經緯《いきさつ》は、「揚屋」の内容は疑問としても、まるきり無視することの出來ない文章であらう。青木休七郎といふ人は昌造の親友でのちにも出てくる人であるが、この文章は昌造の罪が「蘭書密輸」などいふ金儲け的なものとちがつて、機微な政治的性質を帶びてゐることをも物語つてゐる。

      三

 昌造「揚屋入り」の安政二年は三十二歳で、保釋になつた同五年は三十五歳であつた。「印刷文明史第四卷」は萬延元年か文久一、二年頃、昌造三十七八歳の頃のめづらしい寫眞をかかげてゐる。傍註に「製鐵所時代の本木氏」とあるから、さう判斷するのであるが、とにかく本木傳の多くが掲げてゐる明治初期に撮つたものと思はれる晩年の寫眞とくらべて、ひどくおもむきが異つてゐるのにおどろく。その寫眞は五人の人物が撮れてゐて、前方に腰かけた三人は「製鐵所の役人」とあるだけで何人かわからない。後方向つて右に青木休七郎がたち、同じく左方に昌造がたつてゐる。たぶん外國人の撮影だらうが、幕末期乃至は明治初期にみる寫眞のやうに、これも西洋直輸入のギコチないポーズで撮れてゐる。右方に副主任の青木がゐるところからして、このとき昌造は主任であるわけだが、前方の「役人」たちは三人共若い丁髷で、何の某と名乘る大官でもなささうだから、主任ではあつても技術面の昌造らの位置といふものは今日の常識からは、はるかにひくいものだつたのであらう。
 とにかく昌造壯年期のこの寫眞は、晩年の白髮の總髮とよく調和してゐる清らかな雙眼や柔和な痩せ面などいふのとまるでちがつて、右肩をそびやかし、やや横向きの顏の肉もまだあつくて角々があり、眉根をよせて一點を凝視してゐるところ、傲岸不屈、鬪志滿々たるものが溢れてゐて、これが同一人物かと思ふくらゐである。前方の若い役人三人はそれぞれ由緒ある士分として幕府なり藩なりの勢力を負うて鷹揚に腰かけたところ、また右方の青木が後年貿易商となつた人物のやうに少しハイカラで商人的なおだやかな風姿などにくらべると、偶然な寫眞ポーズからばかりではないもの、一克さ、狷介さが殺氣さへおびてみえるのである。
 さて、昌造の萬延元年以後、日本で最初の長崎飽ノ浦製鐵所の技術者時代は後半に述べるとして、安政二年から五年に至る長期の謹愼時代は、昌造が日本活字乃至日本の印刷術に心をつくした第二期であつ
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