た阮甫のある※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]話について呉秀三氏はこのやうにも書いてゐる。「されば安政の初に清水卯三郎が、阮甫が下田に居る所へ行つて弟子入りを頼むと、阮甫はそれを探偵と思つたと見え、なかなか許さない。段々頼んだ所、江戸へ行つてから教へてやらうといふ約束で、清水は其後江戸で阮甫の門に入つた。」また「西洋の書物の飜譯や其出版の事が寛かになつて來――たのは、是からズーツと後で、――阮甫は長い間天文臺の飜譯方で、唯天文方の下に屬して、命令の儘に洋書を飜譯するばかりであつた。」
ところが、幕府の政治的場面にある阮甫などはさうであつても、當時江戸の杉田成卿とか大阪の緒方洪庵などは東西に大きな塾を開いてゐてなかなか旺んであつた。「緒方洪庵傳」(緒方富雄氏著)に見えるところでは、安政元年に「當時病用相省き、專ら書生を教導いたし、當今必要の西洋學者を育て候つもりに覺悟し」などと手紙に書いてゐて意氣軒昂であり、大村益次郎や大鳥圭介やなど多數の塾生を擁してゐたのをみると、かなり寛やかだつたやうでもある。福澤諭吉が二十一歳で長崎へ遊學したのは安政元年で、大阪の洪庵塾へ入つたのは同二年であるが、當時も「内塾生」だけで「五六十人」からあり、他に通學生もあつたといふから恐らく百人を超えてゐたらうし、「緒方の塾生」といへば大阪では有名だつたと謂はれる。「福翁自傳」などでみると、某大名が洪庵に貸し與へたある蘭書を、諭吉ら塾生一同が徹夜で手寫して返したなどの話がある。この場合もその原書が高價でもとめがたいといふところに力點があつて、それほど事自身が祕密でも法規に觸れたものでもないやうである。
洪庵が「當今必要の西洋學者を育て」云々は、著者も云つてゐるやうに勿論「西洋かぶれの學者を育てる」意味ではなくて、最初の黒船來航以來、何としても泰西の文明をわがものとして、外夷に備へる必要からであるが、緒方洪庵は文久二年に西洋醫學所頭取となつた晩年わづかを除けば、生涯を民間の醫者としてまた蘭學者として功勞のあつた人で、ほとんど政治的面には出なかつた人であり、杉田成卿も蘭學者ではあつたが開國論者ではなかつたと「箕作阮甫傳」はつたへてゐる。
つまりこれらを綜合してゆくと、蘭書の購讀とか勉強とかいふ問題は、まことに微妙なものだつたことがわかるやうだ。泰西の文明をわがものとして外夷に備へなければならぬことは當時の大勢であつても、政治的な實際方法の場面では「鎖國」と「開國」にわかれて、また「鎖國」にも佐幕派がある如く、「開國」にも尊皇派があつて、昌造など勿論「尊皇開國派」であるが、それが政治的波動のたびに複雜にもつれあひ、同じ蘭學者でも政治的面にある人は阮甫のやうに入門者でも一應は探偵ではないかと疑つてみねばならぬやうな情況にもおかれたのであらう。
つまり安政二年頃になると、蘭書の輸入なり勉強なりの取締は寛かになりつつあつた。尠くとも蘭學への關心は「安政の開港」と共に一般的にも急速にたかまりつつあつて、幕府も國防の必要だけからも「日本製洋書」をつくらねばならなかつた。しかしまた蘭書購讀についての法規が改正されてはをらず、また改正されてゐようとゐまいとに拘らず、その購讀者、勉學者自體の性質なり、在り方なりによつては幕府なり幕府以外の方面からなり強い壓力を蒙らねばならなかつたといふことになる。箕作阮甫と緒方洪庵とくらべてみて、いろんな意味でそのことがわかるやうだ。昌造などの場合、その以外に彼が通詞といふ蘭書買入れに特別の便宜をもつた職掌は、も一つの危險があつた。この危險は人格的に下劣な單に「金儲け」からくるそれもあるが、同時に人格的に下劣でなく、學問的な意味からそれを利用する場合もありうることで、「蘭學事始」以來の洋學者は、その「脇荷」的輸入方法からまつたく無關係に勉學し得た場合の方がむしろ尠いかも知れぬ。そして昌造がそのいづれの側であるかはいままでみてきたところ、またこれからみてゆくところでおのづと明らかだから述べないが、とにかくその危險は長崎に生れ通詞の家に育つた彼の宿命の一つであり、しかも士分でもない彼等は、「藩の勢力」などといふ庇護的背景はまるでなかつたのである。
しかしまだそれだけなら昌造の問はれた罪は單純であらう。前に述べたやうに彼の祖父四代目通詞目付庄左衞門は同じやうな事を甲比丹ヅーフから時の長崎奉行に密告されたことがあつたが、そのことで庄左衞門の通詞的立場は妨げられなかつた。また「脇荷」によるある種の利益は、古くから一般通詞のみならず奉行所役人に至るまでその「餘祿」とされたといふから、このことだけで昌造が、その六代目通詞目付を襲ぐことは出來なかつたとしても尠くとも通辭的公職から身を退いたも同然となるやうな結果は
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