ば本木昌造先生が侠氣ありて己がいささかも係はらぬ事柄なるに他人の罪を救はんとて無實の罪を身に引受けられたるなりと云ふ」と書いた。「世界印刷通史日本篇」は單に「事ありて」と詳述を避け「本木、平野詳傳」は、この出來事についてもつとも詳細に記録をあつめてゐる點ですぐれてゐるが、「苟くも偉人たる本木昌造先生の名を傷けるものとして」入牢否定説に終始してゐる。つまり否定にしても肯定にしても、「入牢といふ不名譽」から昌造を無理矢理に引き離さうとしてゐる點で一致してゐるのである。
しかし昌造の生涯にとつて大きなこの事件は日本の活字の歴史にも關係があるので、私もべつに新らしい材料を持つてゐるわけではないが、出來るだけ考へてみたい。「印刷文明史」は福地の説「他人の罪を救はんとて無實の罪を身に引受け云々」を敷衍して「――然るに氏の實兄であつた品川梅次郎なるものは、遊蕩の性なりしため、昌造氏の購求し居る洋書類を、密かに江戸の武士達に賣付けた。洋書に趣味なき武士達は、これらの蘭書類を洋學者連に高價に賣却して遊蕩の費に當てたなどのことが累を爲して、遂に昌造氏は牢屋に閉居せしめられ」たのだと書いてゐて、「入牢肯定派」の原因とするところは一に「蘭書取次」にある。
これに比べて、「入牢否定説」の「本木、平野詳傳」は、有力な反證をあげて次のやうに述べてある。その一は安政二年より三年にかけて昌造は出島の蘭館で活版技師インデル・モウルを監督して「蘭話字典」を印刷してゐること。その二は安政二年「活字板摺立係」を命ぜられてゐること。その三は安政二年造船海運についての「由緒書」を奉行荒尾岩見守を經て永井玄蕃頭に提出してゐること。その四は安政三年「和蘭文典文章篇」を著述してゐること。その五は安政四年和蘭で出版した「日本文典」の日本活字の種書を送つてゐること。その六は安政四年、「和英對譯商用便覽」を出版してゐること。その七は安政五年「物理の本」を出版してゐること。その八は安政四年に次男小太郎が産れてゐること。その九は長崎奉行所の「入牢帳及犯科帳」にも記録がないこと等であつて、このうち「活字板摺立係」任命は月が不明なので事件前か後かわからぬし、造船、海運の「由緒書」は海軍傳習所設置當時だからこれも事件前かも知れぬが、その他の反證はたしかに現存する文書や、家系が示すところによつて疑ふ餘地がないが、「本木、平野詳傳」の著者もまた古賀十二郎氏の談をあげて「然し蘭書輸入の點ではとがめは受けて居る」と云ひ、「安政二年に幕府の命に依り、奉行水野筑後守の調を受けて居る。それは和蘭書無斷買入れである」と[#「買入れである」と」は底本では「買入れであ」ると」]、「蘭書取次原因説」に同意して[#「「蘭書取次原因説」に同意して」は底本では「蘭書取次原因説」に同意して」]、しかし「微細なものにて、入牢せられたものとも想像されず」と否定説を固持してゐるのである。
そこで私らが判斷しうることは、入牢肯定、否定を通じて、昌造が安政二年には「蘭書取次」あるひは「購入」で幕府に罪を問はれたことだけは確實だといふことである。たとへば「印刷文明史」のいふ如く「揚屋入りを申しつけ」られたといふ「入牢形式」ではなかつたかも知れぬが、「本木、平野詳傳」の著者のいふところもまた、その他の形式による處罰もまつたくなかつたと否定し得てゐるわけではない。逆にいへば、昌造の通詞としての公的生活は、殊に嘉永六年以來は非常に多忙で、常識的にいへば順調だつたにも拘らず、安政二年以後は萬延元年末飽ノ浦製鐵所御用係となるまで、ほとんど絶えてしまふのは何故であらうか? 通詞としては「下田談判」以來の小通詞過人から生涯のぼることのなかつたのは何故だらうか? といふ疑問にも答へ得るものとはなつてゐないことである。
つまり肯定説、否定説のどちらも、その全部を信用することは出來ぬのであるが、假に判斷を想像的に延ばしてゆくならば、共通する原因の「蘭書購入」にもとめてゆかねばならぬだらう。「詳傳」の著者もいふごとく、それが「微細な」罪であつたかどうかである。前記したやうに安政二年の後半からは尠くとも表面的には「蘭書の輸入が間にあはな」かつたほどの時代であつた。そのために日本で最初の公許の「印刷工場」が出來た時代であつた。嘉永二年の「近來蘭醫増加致し世上之を信用するもの多く之ある由、相聞え候、右は風土も違候事に付、御醫師中は蘭方相用候儀、御禁制仰出され」た「御布令」の時代から見ると格段の相違があつたやうに見えるが、また一方では「長崎談判」の折森山榮之助が譯述して公用に役立つた英書を同じ應接係役人の箕作阮甫でさへが讀むことが出來なかつたやうな實情もあつて、それが嘉永六年の末である。また安政元年から二年まで同じく川路左衞門尉に隨つて「下田談判」へ參加し
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