間を往復させるといふ意味であるが、文中幸八の名があつて昌造の名が出ないのは、昌造は長崎奉行配下で目下江戸出役中ゆゑ、幕府へは憚りあつたのであらう。
その船が雛型どほりうまくいつたか? またいつ出來あがつて、江戸内海でどんな風に試運轉したか? それはわからないが、翌年八月、その船が土佐へ無事※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]航してきたことは、既に歸國してゐた寺田志齋の日記に見える。「四日、由比猪内ヘ過ク。夫ヨリ出勤。今日ハ早仕舞九ツ時退ク。――蒸汽船江戸ヨリ※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]着ス」そして同じ八月二十三日には「――四ツニ出、八ツニ退ク。今日雅樂助君(容堂弟)蒸汽船御見物ニ御出。余モ亦往ケトノ命アリ、先ヅ三頭ニ至ル。少將公御出也、頃之御歸座、遂ニ彼ノ船ニ御上リ、余モ亦隨フ、此船余前官ニテ江戸ニアリテ頗ル此議ニ預ル、只迅速ナラザルノ恐アリシニ、果シテ進ムコト遲々タリ――」
「東洋傳」には、この蒸汽船が警護の傳馬船よりもはるかにのろくて、人々困惑したといふ趣きが書いてあるが、また機械でうごく船をみて人々がおどろいた趣きも書いてある。とにかく昌造及び幸八による、日本人によつて創られた最初期の蒸汽船はのろいながらも日本の海を進水したのであつた。
しかし昌造は蒸汽船製作の實際を何によつて學んだのだらうか? 弘化元年來航のオランダ軍艦「パレムバン」以來、いくつか蒸汽船は見たにちがひないが、通詞ではあつても外國軍艦などの機關部點檢などはそんなに自由ではなかつた筈である。同じ弘化年間に幕府はオランダに註文して、小型の蒸汽機關を註文したことがあるが、その頃の昌造は稽古通詞の若輩であつた筈だから、自由な便宜も得られなかつたにちがひない。文書により、あるひは人知れず模型などつくつて、豫てからの苦心の結晶であらうが、のろいながらも日本人だけで創つた蒸汽船が進水したことは、この時代として特筆すべきことであらう。蒸汽船ではないが洋式船舶建造の最初の歴史としてのこる戸田村の「スクーネル船」は翌安政二年であつたことを思ふと、「長サ六間」の「砲二挺」を備へた船が「深サ五尺四寸」しかなかつたといふことは、それだけに却つて自然のやうで、昌造や幸八の苦心が想像されるやうである。
二
昌造のつくつた蒸汽船雛型が「砲二挺」を備へた一種の軍艦であつたことは、「海防嚴守」のたてまへから、土佐藩の註文であつたと謂はれるが、嘉永六年ペルリ、プーチヤチンの來航、安政元年の「神奈川」「下田」二條約の成立といふ、時の情勢と對應してゐて興味ふかい。安政二年江戸から歸國後、直ちに永井、勝らの海軍傳習所の通譯係を任命されたのも、時代の波が命ずるところであつたらう。同僚の森山榮之助は改め多吉郎となつて外國通辯方頭取となり、同僚堀達之助は蕃書取調所教授となつた。昌造もまたこのままでゆけば、いちはやく何らか幕府的に表だつた役柄となつたのであらう。ところが彼は同じ二年に幕府に罪を問はれて「入牢」してしまつたのである。
「この年氏は長崎へ歸りしが、時の長崎奉行水野筑後守は幕府の命によりて、氏に突然揚屋入りを申付けた。乃ち氏は牢獄の人となつた。その理由は、氏が江戸に滯在中、天文臺の諸役人より依頼を受けて、天文に關する蘭書の購入方を引き請けてゐたのが原因である」と「印刷文明史」は書いてゐる。
三谷氏の「本木、平野詳傳」を除けば、福地源一郎の「本木傳」も「世界印刷通史日本篇」も、その他多くの本木傳が、彼の入牢説を支持してゐる。しかもその入牢期間は、一致して安政二年から安政五年十一月までといふ長期である。これは昌造の生涯にとつてほんの「躓きの石」くらゐではないだらう。前にも述べたやうに、通詞に對する罰則は一般にきびしくはあつたが、しかし「印刷文明史」のいふところを信じても、單に蘭書購入方取次といふだけではあまりに過重ではないかといふ氣がする。
「天文臺の諸役人」は幕府の外國關係の役所である。しかも安政二年には蘭書の輸入が間にあはなくて、長崎奉行西役所内に印刷所をつくつて「日本製洋書」をこしらへた程である。そして昌造を訊問した水野筑後守は「下田談判」當時の次席應接係で、昌造はその配下であつた。昌造の養父昌左衞門は通詞目付で現存してゐて、假に多少の私情がものをいふとするならば相當の力もあつた筈である。しかも昌造は「長崎談判」以來、長崎通詞中功勞のあつた人間である。嘉永の初期とちがつて尠くとも表面的には緩和されてゐた筈の「蘭書購入取次」くらゐが、何故にそれ程の重罪に問はれなければならなかつたらうかといふ氣がする。
「本木傳」の多くが彼の入牢を「ほんの躓き」とする傾向をおびてゐる。福地源一郎は「同年本木昌造先生故ありて入牢せられぬ。その故詳ならず、人の傳ふる所に依れ
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