助へ與へた書翰にみる昌造への傳言文など。殊に下田談判のとき、昌造だけがひとり戸田村のスクーネル船工事場付の通譯であつたことが、對幕府的にもあまりはえ[#「はえ」に傍点]ない場所に自らもとめて行つたやうにも思はれるし、これらを思ひ合せると、どつか符節が合するやうで、時代を超えてとほくを見詰めてゐるやうな科學者らしい風貌がうかんでくる。
 昌造が下田から長崎へ戻つてきたのは、安政二年の何月だか現在の私にはわからない。プーチヤチンの下田退帆が三月二十三日で、まだ乘組員の一部は殘つてゐたし、いろいろ後始末もあつたらうから御用濟はそれより若干遲れてゐよう。また公用の暇々には、造船や蒸汽機關などにも當時としては先覺であつた彼など、「大船建造禁止令解放」直後の、造船熱の旺んだつた大名などに招かれたりしてゐるから、眞ツすぐに長崎に戻つたか否かもわからない。しかし同年七月長崎に出來た永井玄蕃頭、勝麟太郎らを主とする海軍傳習所の傳習係通譯となつてゐることは前記した通りだから、夏には確實に長崎へ戻つてゐたわけである。嘉永六年七月以來足かけ三年、昌造は文字通り東奔西走であつたわけで、このことは縫が長男昌太郎を産んで、次男小太郎を産むまで、嘉永六年から安政四年まで四年間のあひがあるといふこととも比例してゐる。
 安政元年の七月に、昌造が土佐侯の築地の造船場にゐたことは前に述べた。「吉田東洋傳」に見える引用文では九月初旬まで昌造の名が出てくるが、恐らく彼は九月中旬まで江戸にゐて幕府天文方の仕事をしてゐたのだと思はれる。つまり神奈川條約成立後、ペルリの退帆が六月で、九月下旬大阪の安治川尻にあらはれたプーチヤチンの船へ幕府の諭書を持參するまでの期間である。それに箱館奉行經由のプーチヤチンの書翰を森山(當時榮之助)と連名で飜譯してゐる事實からみて、天文方の仕事もしてゐただらうと判斷するわけであるが、「東洋傳」によれば、昌造は江戸において最初の洋式船舶建造の功勞者といふことになつてゐる。
「安政元年七月、長崎の通譯本木昌造、公用を帶びて下田に來るの途次、轉じて江戸に入る。八月廿九日、豐信(容堂侯)昌造を召して海外の事情を聽き、携ふるところの蒸汽船の模型を見、隨從の工夫幸八に命じて、更に模型を作らしめ、幕府に請ふて試運轉を爲す。是れ江戸に於て、洋式船舶製造の濫觴なり――」
 吉田東洋は土佐藩の船奉行で開國論者、文久二年攘夷派の志士に暗殺された人である。この文にいふ「下田に來るの途次、轉じて江戸に入る」といふところは、前記したやうな昌造の動靜から推しても異つてゐるやうだが、いづれにしろ昌造が造船その他海外科學に造詣がある人間だといふことは、當時その方面の人に知られてゐたらしい。明治四十五年御贈位の内申書には「蘭話通辯」の他に「海軍機關學稿本」などがあつて、多くの印刷術發明に功勞のあつた人々が他の部門でもさうであつたやうに、昌造も日本の艦船發達の歴史では、その名前を缺くことの出來ない一人となつてゐる。「翌二年豐信參覲交代の期に際し、歸國の後之を高知に※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]漕し、浦戸港内に泛べ、豐資その他連枝及び諸士に縱覽せしめて西洋事情の新奇進歩せる實物標本を紹介して、大いに頑夢を覺醒せしむるところありたり」
 土佐藩士を「大いに――覺醒せしめ」たのは勿論吉田東洋のことを云つてゐるのであるが、土佐藩の洋式船舶建造が東洋の發起であるならば、昌造を推薦したのも東洋かと思はれるし、東洋と昌造は若干の知己であつたかも知れぬ。しかし土佐藩の洋船が日本で最初かどうかは疑はしい。土佐藩の船が築地で出來上つて、土佐の港で運轉したのは翌二年の八月だが、薩摩藩の昇平丸が江戸へ※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]航してきたのは同じ二年の四月である。土屋喬雄氏の「封建社會崩壞過程の研究」によれば、薩摩藩は嘉永五年に蘭書に基いて蒸汽船雛型を作つた。表面は琉球警備に名を藉りて幕府の許可を得てゐたもので、水戸齊昭の主唱によつて「大船建造禁止令」が打破されるや、建造中のその一隻を幕府に獻納したものだといふから、「東洋傳」の限りでは一歩遲れてゐることになる。
 しかしそれはとにかく、土佐藩は昔から船では名のある國で、土佐と薩摩は建艦競爭してゐたといふから、「禁止令」解放後先鞭をつけたことは疑ひなく、昌造としても生涯の名譽の一つであらう。昌造持參の蒸汽船模型がどんなものであつたか、それは今日何も傳つてをらぬのでわからぬが、大きな水溜か何かで運轉してみせたらしい。「東洋傳」中、引用の寺田志齋の日記は、それを見物してびつくりしてゐる。
「七月朔日(安政元年)晴天、九ツ過ニ退ク。遠江守樣御出ニ付、八ツ頃再ビ出動、直チニ退ク。長崎鹽田氏幸八ト云者、蒸汽船雛型持出シ、御馬場ニ於テ御覽アリ
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