婚し、間もなく家業の通詞職をも襲ぎしが」と書いてゐるが、昌造元服は十五歳だから、縫はこの年生れたばかりで、つまり赤ン坊と許嫁の式を擧げたのであらう。
もちろんかうした結婚風習は江戸時代の世襲制度と深く結びついてゐる。通詞には古くから一種の試驗制度があり、幕末期には對外關係の急激な膨脹から新規取立の通詞も澤山あつたやうだが、特別の缺陷がない限り、武家と同樣、世襲制度は強力に生きてゐた。このことは日本の文書にも明らかだし、シーボルトやゴンチヤロフの手記にもみえる。昌造が昌太郎の父となつたとき、養父昌左衞門はまだ「大通詞兼通詞目付」として羽振りをきかせてゐた。そのことは「長崎談判」の折、ロシヤ使節側から幕府委員及び立會の通詞たちに贈物をしたとき、その談判には直接たづさはらなかつた昌左衞門を通詞側の筆頭にして、「通詞目付本木昌左衞門へ、銀時計一個」と「古文書――卷ノ七」に記録されてあるのでも明らかである。通詞目付は通詞取締といふ役目で、「洋學年表」元祿八年の項に「十一月長崎和蘭通詞目付の員を設け衆員を監督せしむ、本木庄太夫始て補さる」とあり、世襲して昌造はその六代目を約束されてゐたわけであつた。
縫は昌太郎の次に安政四年小太郎を産んで、その翌年七月死亡した。長男昌太郎はそれより四ヶ月前、縫に先だつてゐるが、小太郎は明治になつてから、民間に始めて出來た活字製造會社「東京築地活版」の社長となつた人である。のち、昌造は後妻タネをむかへ、清次郎、昌三郎をなし、他に妾某との間に娘松があり、晩年には子供は出來なかつたが妾タキがあつた。娘松を産んだ妾某は、元治元年昌造が八丈島に漂流した折にできた女であるが、かうした多端な過程にみても、彼の結婚生活はあまり幸福ではなかつたやうである。後妻タネの死亡年月は不明であるけれど、清次郎を元治元年に、昌三郎を慶應三年と、矢繼早に産んで、それきり後絶してゐるのをみると、二度目の妻にも先だたれたのか知れない。いはば女房運の惡い人であつて、そのことが最初の妻縫が十三四歳で結婚し、十九歳の短生涯で終つたことや、昌造が生れたての赤ン坊と結婚式を擧げねばならなかつたことや、そんな不自然さと結びついてゐるやうに私には思へてならないのである。
昌造自身、かういふ當時の男女風習についてどんな見解をもつてゐたか、彼の今日殘る著書のうちにも示してゐないのでわからないが、假に何らか新らしい見解が彼にあつたとしても、さういふ風俗なり慣習上の問題は當時の過渡的な政治や科學よりむづかしいもので、明治の維新なくしては考へられぬことであらう。彼は一般に科學者とだけみられてゐるし、彼の著書もそれ以外には見ることが出來ぬやうである。「印刷文明史」の著者は、明治四十五年昌造へ御贈位の御沙汰があつたとき、當時在世中であつた昌造の友人諏訪神社宮司立花照夫氏、門人境賢次氏などを長崎に訪ねて、昌造についての感想を求め、次のやうに書いてゐる。「――當時氏の眼中には最早渺たる一通詞の職はなく、世界の大勢に眼を注いで、心祕かに時機の到來を待つてゐた。この間氏は常に多くの諸書を渉獵して、專ら工藝百般の技術を研究し、殊に自己の修めた蘭學を通じて、泰西の文物を研究するに日も尚ほ足らずといふ有樣であつた。此頃に於ける我が國情は鎖國の説專ら旺盛を極め、異船とさへみれば無暗に砲撃を加へるといふ状態なりしが、昌造氏は毫も之に心を藉さず、心中私かに開港貿易の時機到來を信じてゐた。然して早晩――通商條約が締結されるであらうと考へ、先づ外國の人情風俗工藝技術の如何にも悉く調査研究して、豫め外國に對する方策を定め、世を擧げて鎖國論に熱中して居たに拘らず、氏は心靜かに泰西の工藝技術を研究してゐたのである。」
昌造在世中の友人、門人のこの感想も今からは三十數年前のことで、再び求むるに由ない貴重なものであるが、文章があまりに抽象的で殘念な氣がする。時代も天保十三年の「異國船打拂令改正」以前のやうにも思へ、また神奈川及び下田條約以後の、つまり萬延、文久頃の五ヶ國條約實施問題をめぐる攘夷論沸騰時代のやうにも思へて甚だ曖昧であるが、とにかく「眼中には最早渺たる一通詞の職はなく、世界の大勢に眼を注いで、心祕かに時機の到來を待つてゐた」とか「毫も之に心を藉さず」とか「心靜かに泰西の工藝技術を研究してゐた」とかいふへんは、嘗ての友人や門人やが傳へる昌造の性格の一面としてそのまま信じてよいだらう。つまり昌造はその頃の日本人が當面する大きな仕事として、海外の科學を吸收してわがものとすることに一切を打ち込んでゐたのであらう。
そして彼のこの特徴的な性格は、「長崎談判」のときプーチヤチンから彼と楢林榮七郎だけに贈られた「書籍一册づつ」「ロシヤ文字五枚」といふ事柄や、ペルリの通譯官ポートマンから森山榮之
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