所へ參る、日本之船大工異國の船大工集り候て働居申候、日本の方今は上手に相成候由――」と書いた。プーチヤチンから贈つたスクーネル繪圖面一切は川路より老中へ送られ、阿部は「――伊勢守殿へ御覽に入れ候處、軍艦には不相成共、至極便利之船に相聞候間、いづれにも一艘早くに打建」てよと命じ、ここに洋式造船術の一部がわがものとなつたわけであつた。
 このスクーネル船は長さ十二間、幅三間で、時の値段で三千餘兩かかつたと誌されてゐるが、前記の「古文書――卷ノ九」の冒頭にはこのスクーネルの進水式の繪がある。作者はたぶん伊豆代官江川の家へ食客となつてゐた無名の畫工だらうと謂はれる。その繪は當時の形を傳へて面白い。銅張りの船は青いロシヤ國旗を掲げていま水面に辷り出したところ、まはりには兩手をたかくあげた水兵風のロシヤ人大工たちと、丁髷に鉢卷、股引に草履の日本人大工たちが腕拱みして見おくつてゐる。群衆のなかに一きは背のたかいロシヤ人で何か祷りを捧げてゐるらしい宣教師と、羽織の裾を刀でピンとつつぱつた日本の侍とが、ならんでたつてゐる風景も歴史的な感じがでてゐる。
 プーチヤチンはこの新造船に乘つて歸國した。三月二十一日に一度出帆したが、沖合に待ち伏せてゐる佛軍艦を發見して引返し再び二十二日に出帆、やがて沖合に姿を消した。このスクーネルが銅張りだつたことは、まだわが國が鐵板製造に未熟だつたせゐであらう。ロシヤ人はスパンベルグ以來、いつもオホツク港で鐵張りの新船を建造する慣はしで、プーチヤチンも日本下田で船をつくらねばならぬ窮地に陷らうとは考へてゐなかつたにちがひない。「魯西亞人下官之内、船大工之者三四人有之、其餘大工鍛冶心得候者有之候間――布恬廷並士官之内三四人自身繪圖面歩割等以墨掛注文仕、多くイギリス國之書籍を以證據と仕候旨、通詞のもの申聞候――」といふ川路から老中への上申書中にみえる文でも、せいぜい破損修理に備へるくらゐの技術者たちであつたらう。海軍中將プーチヤチンはじめ半ば素人が總がかりでスクーネル一隻を作つたわけで、それは却つてこれに參加した日本船大工にもおぼえやすかつたらう。文中「通詞のもの」とあるはたぶん造船場付の昌造にちがひなく、彼はロシヤ人について伊豆一圓を歩き※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つた木材買入れの最初から、その進水式まで關係してゐた。三谷氏の「詳傳」によれば、このときの昌造の勞苦を謝して、翌年ロシヤ政府は金時計を贈つたとあるが、プーチヤチンは歸國に先だつて日本側委員に贈物したときも、昌造には「湯ワカシ一個、繪二枚」と記録にある。「湯ワカシ」とはロシヤ名物の「サモワル」のことと察せられるが、川路に「セキスタント一箱、寒暖計一本、繪五枚」、森山に「寒暖計一本、毛氈一枚」、堀達之助や他の通詞たちは「布地若干」などと比べると、ほんの贈物ではあるけれど、昌造がロシヤ人に比較的ふかく感謝されてゐることがわかるやうだ。
 しかし昌造たち通詞も嘉永末年以來、急速に忙しくなつてゐた。新たに開港された蝦夷の箱館にも常住の通詞をおくらねばならなかつたし、長崎は長崎で新たに英國にも開港した。下田は下田で條約調印のその日から捕鯨船などがやつてきて、アメリカ人が上陸徘徊するといふ次第で、長崎通詞はいまや長崎だけの通詞であることが出來なくなつてゐた。
「下田表に詰合罷在候阿蘭陀通詞之儀、是迄兩人に候處、異船渡來之節は、應接並びに飜譯もの、薪水食糧缺乏之品送り方等、勤向悉く多端にて、其上異人共遊歩の節、謂れ無き場所へ立寄候歟、又は多人數上陸等いたし、萬一混雜等有之候節は、通詞人少々にては甚だ差支へ、自然御取締にも拘り、其上當表之儀は、缺乏品、相調候ため渡來之異船而已にては無之、何國之船、何時渡來致すべきやも難計、此上共追々御用多に相成、迚も兩人にては手足兼――五人増人被仰付候樣仕度旨申立之趣も有之、いづれにても増人被仰付――尤も長崎表之儀も當節御人少之由、殊に重立候もの當表へ罷越候ては同所御用筋差支可申哉に付、小通詞助以下三人早々當表え差越候樣、長崎奉行え被仰渡候――」云々といふのは、二月二十五日に川路から老中宛の上申書で、その附書には、堀達之助、志筑辰一郎兩人下田詰合通詞の、下田奉行への増人方願文がある。
 まつたく下田詰合二人では無理であらう。蘭語に通じた學者や侍は、當時日本全國では尠くなかつたらうが、通辯となればまた別で、加へて通詞といふのは一種の職人として扱はれてゐたから、前文中にも見えるとほり、長崎奉行の支配を受けねばならず、たとひ蘭語が喋れる學者や侍でも、進んで通詞にならうとはしなかつたらう。おまけに長崎通詞は蘭語が主であるが、條約を結んだ相手は米、露等であつて、三月一日に下田奉行が川路宛に愬へた書翰に、「只今同所に罷在候亞米利加人共は、蘭
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