れの生死に拘るといひ、この上は筑後守(さきの長崎奉行で、次席應接係であつた)へ引渡して自分は取扱はぬ、つまり一切を白紙に還元してしまふぞといふところと、プーチヤチンが「御取極相成候儀に付――はからずも右等之次第――驚き入候」といふあたりの對比は、川路一個にとつての恨事であるばかりではなかつたらう。
四
日露下田談判のときも、通詞昌造の活動はあまり明らかでない。榮之助改め多吉郎は、このときもはや末輩ながら幕府直參だから、その活動が主體的に記録に殘つてゐるが、同じ通詞としてこのときはたらいた堀達之助にくらべても表だつた記録が尠いやうだ。ペルリの「日本遠征記」などには、當時の長崎通詞が殆んど殘らず記録されてあるのに、昌造だけがない。しかもペルリの通譯官として最も活動したポートマンが、特に昌造について注目してゐる前記の榮之助宛書翰を思ふとき、何かしら昌造の性格の一面がそこらにある氣がする。これはのちの話にもなるが、彼は通詞としては生涯「小通詞過人」から陞ることがなかつた。初代庄太夫以來世襲的な「通詞目付」として、長崎通詞最高の家柄であつた彼が「小通詞過人」から陞らなかつたといふことは、常識的にみて不審の一つである。長崎談判以來、大きな外交事件には引續き拔擢されて參加してゐるから、語學や通辯力量に劣つてゐたとも思はれないが、そのへんに長崎通詞一般とちがつた、どつか己れの科學的才能と共に思ひをひそめた一克なところがあつたのではなからうか。
安政元年十一月以來、つまり下田談判の中途から、彼はロシヤ人と共に伊豆の戸田村にゐたことが、「古文書幕末外交關係書卷ノ八」の記録によつてわかる。「昨十四日豆州戸田村到着仕候處――魯西亞使節私共着之趣承り急き面會仕度段、通詞本木昌造を以て申越候に付、直に使節罷在候寶泉寺へ御普譜役[#「御普譜役」はママ]御小人目付等引連れ罷越及面會――」云々。これは翌年二月十五日付で、ロシヤ應接係の一人、勘定組頭中村爲彌から川路宛の上申書の一節であるが、ロシヤ人たちは戸田村海岸で船をつくつてゐたのである。前年十一月四日の海嘯と、宮島沖でのフレガツト沈沒などで、ロシヤ使節は數百名の乘組員を歸國させるのに船が足りないでゐた。アメリカ捕鯨船を借用したりしたが、その間捕鯨船乘組のアメリカ人たちを上陸させ、待たせておく場所が困難で、幕府役人との間に起つた面白い※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]話も幾つか記録にみえる。プーチヤチンは最初軍艦の建造を懇請したが、沖合に出沒してゐる英佛艦隊と中立地帶で海戰でもされては困るので、幕府は許可せず、運送用としてのスクーネル一隻が、ロシヤ人と日本人とで建造されつつあつた。
翌二月十六日にも、川路へ上申した森山多吉郎からの上申書があつて、「今十六日、魯西亞使節多吉郎へ面會仕度旨、通詞本木昌造を以申立候に付、其節御屆之上幸藏一同と右宿寺戸田村寶泉寺え相越し面談仕候――」云々。プーチヤチンはスクーネルの建造をはじめてからは、監督をかねて戸田村の寶泉寺へ宿泊してゐた。したがつて昌造は造船場及び寶泉寺付として、當時の通詞中一ばんロシヤ人と接觸してゐたわけである。
戸田村は下田から十里餘を距てた駿河灣の内懷にあるが、このときから日本ではじめて洋式の近代船を打建てた歴史的な土地となつた。スクーネルの建造は勿論ロシヤ人の設計で、ロシヤ人の船大工がこれに當つたが、日本人の船大工も澤山これに參加した。プーチヤチンは萬里の異境に在つて多くの船を失つた窮状を、日本側がよく諒解して建造に助力してくれた點について感謝した趣きは、彼自身の記録にも、また翌年ロシヤ政府の名を以て送られた感謝状にも明らかであるが、幕府としてもこの稀有な機會をつかんで洋式造船術を學びとらんとしたわけで、當時參加した船大工も、關東一帶の腕利きばかりを集めたと謂はれる。
またロシヤ人たちも自分たちの技術を傳へるにやぶさかではなかつた。二月二十九日寶泉寺で會談したプーチヤチンは中村爲彌に次のやうに語つてゐる。「スクーネル新船之儀は繪圖面其外巨細之儀、川路樣え可申上、尤私出帆まで兩三日之日合有之候――スクーネル船日本にて御用ひ被成候節は長崎まで三日程にて相※[#「舟+走」、317−7]り申候、隨分御用辨に相成可申候――スクーネル船には、輕荷積入不申候ては不宜候間、石にても御積入可被爲、尤も荷數之儀は猶委細可申上候――」といふので、船底が深いから荷物が輕いときは石でも積めといふことや、江戸、長崎間を三日ではしるなどは當時としては驚異的なことであつたらう。
川路も勿論この新造船に充分の關心を持つてゐたわけで、二月二十四日の日記に「晴、五ツ半時戸田村大行寺之魯人使節布恬廷呼寄候て及應接、夫より魯船製作
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