物語つてゐるが、さらにプーチヤチンの軍艦一隻は海嘯を喰つて破損、修理のため曳航中宮島沖で沈沒、プーチヤチン自身ですら身をもつて海岸に泳ぎついたといふ遭難事件もあつた。しかもプーチヤチンは佛艦を逆襲して、これを拿捕しようといふやうな戰爭を一方でやりながら、條約が締結し終へるまで、日本側委員にすこしの弱味も見せなかつた男である。
 川路は「下田日記」の十二月八日に書いてゐる。「――おもへは魯戎の布恬廷は、國を去ること十一年、家を隔つること一萬里餘、海灣の上を住家として、其國の地を廣くし其國の富を増さむとしてこころをつくす、去年以來は英佛二國より海軍を起して魯國と戰ひ、かれも海上にて一たひは戰ひけむ、長崎にてみたりし船は失ひて、今は只一艘の軍艦をたのみにて、三たひ四たひ日本へ來りて國境のことを爭ひ――一たひはつなみに遭ひ――艦は海底に沈みたり、されと少も氣おくれせす再ひこの地にて小船をつくり――常にはフテイヤツなとといひて罵りはすれとよく思へは――かくお用ひある左衞門尉なとの勞苦に十倍とやいはむ、百倍とやいはむ、實に――眞の豪傑也――」
 川路はまた敵を知つてゐたのである。「フテイヤツ」とはプーチヤチンのことを日本風には「布恬廷」と書いたから、その洒落をふくんでゐる。彼は日記の他のところで、「自分もプーチヤチンのやうに世界を股にかけ、四重五重の困難に遭つたらばプーチヤチンくらゐのえらい人間になれるだらう、何分泰平と鎖國の中にゐては眞の豪傑とは却々なれぬ」といふ意味の述懷をしてゐるが、當時にあつてこれだけの感想は、それだけでも値打あるものだつたにちがひない。
 毛色眼色はちがつても、豪傑は豪傑を知ることが出來る。日米、日露の修好條約文の調子にちがひが感じられるやうに、川路の太刀打は充分に自主性を護り得たものであつたと思へるが、その川路もまた時代の鎖國的な掣肘からは遠く出ることは出來なかつた。幕吏中の「新知識」もそれに災ひされて、思ひがけぬ窮地に陷らねばならなかつたのである。
 同條約文の第六條に、「若止むことを得ざる事ある時は、魯西亞政府より箱館、下田の内一港に官吏を差置くべし」とあり、同附録第六條には、「魯西亞官吏は安政三年より定むべし、尤官吏の家屋並に地處等は日本政府の差圖に任せ――」とあるのが、伊勢守の激怒する處となつた。「日米條約」の方にも第十一條に殆んど同樣の内容があり、調印後十八ヶ月を經て云々とあるが、阿部は「――神奈川條約已に誤れり。然れども彼は猶曖昧として後日談判の餘地なきに非ず。是れは明々に官吏を置くを許す。應接係の内にも左衞門尉の如きは才幹傑出の士なるに――遺憾の至りならずや」であつた。川路の處置が單なる先條約に準據した事務的な行過ぎであつたか、或は開港する以上、この處置は當然のこととする開國進取的な信念からであつたか、その日記にみても明らかでないけれど、尠くともロシヤ使節の武力やなどに氣壓されての結果でないことは明らかだと思へる。徳富蘇峰氏も「和親條約を結べば、領事を開港場に置くは必然の事。――如き不見識を――阿部正弘さへ暴露しつつあるを見れば――幕府對外の大方針、大經綸の、遂に定まる所なかりしも、亦宜べならずや」(近世日本國民史卷三十三)と書いたやうに、鎖國因循の氣風は嵐のやうな對外關係の改革期にあつても、その第一線に活動する人々の頭上を陰に陽に蔽うてゐたのであらう。安政二年二月二十四日付、伊豆戸田村寶泉寺においての川路對プーチヤチンの、この第六條取消談判の會話記録は、川路の苦衷を傳へて遺憾がない。
 左衞門尉
「――長崎以來の心盡しを不被顧、斯迄申談候儀をも、更に聞承不申候ては、拙者政府え對し申譯も無之、實に生死に拘り候次第に陷入候。然る上は右等之事は筑後守へ引渡し、以來一切拙者取扱申間敷候。
 布恬廷
 折角之御談には御座候得共、御沙汰の通りには難相成、乍去、一昨年來遙々御出張、御苦勞も被成、殊に厚き御談故、何とか御談之廉相立候樣、御受可仕候、尤御即答には難相成候間、暫く御猶豫被下候樣仕度候。
 左衞門尉
 大慶いたし候、此方之迷惑は先達て使節、宮島沖にて難船におよび候節之比例には無之候。
 布恬廷
 條約之儀昨年以來厚く御心配被爲在候て、御取極相成候儀に付、政府御不承知之儀無之事と存候處、はからずも右等之次第を承り驚き入候。
 左衞門尉
 時分にも相成、麁末之辨當申付候、相用候樣可被致候。――」
 川路が「生死に拘り候」と云つたときの顏色はもはや切腹を覺悟してゐたにちがひない。それを「折角之御談には御座候得共、御沙汰の通りには難相成」と、一旦はつつぱねたプーチヤチンのふとさ。このへん數行は男二人の力比べで、左衞門尉が「時分にも相成、麁末之辨當申付候」といふところで大舞臺の幕切れといふ趣きであるが、川路が己
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